Mar 3, 2011

時代に触れず纏うこと

某アーティスト、某デザイナーなど最近の一連の流れは怖い。

連合国側にも反ユダヤ的な考えを認めていた人々は少なくなかった。例えば、オードリー・ヘップバーンの父はヒットラーに賛同し、家族のもとから去った。参加しているウェブサイトの中でも、ポーランド人、ロシア人のファンが際立つ。知っている中では一人、イスラエルに住むユダヤ人もいた。

「当時の人が老齢で亡くなっているので、感情抜きに当時のことを語れるようになっている」とオランダの友人が言っていた。私は「何故人々は熱狂し、何故あんなことを起こしたのか」に興味があるのだけど、タブー要素までもが解き放たれ、自覚のない軽率なファンは公に着飾り、発している。ヨーロッパに昔からある差別意識がその事を浮き彫りにしている。

そのほとんどが、あのシンボリックな形(なり)を示すには安易すぎた。独裁者もまた「人」であったが、決して偽善的な意味あいではなく、彼らは政治的にそうすべきではなかった。

ドイツ人が封印し続けてきた「ヒットラー展」をやったのとは意味が違うのではないか? G・グラスが「玉ねぎの皮をむきながら」で過去を打ち明けるまでにかかった時間を考えてみたい。

発せられた言葉は独り歩きをし、広がりながら変幻自在に形を変えていくのである。


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