今日お誕生日のマックス・ヴュンシェ(右)は後にヒットラー・ユーゲント師団の装甲連隊の指揮官となる、ライプシュタンダーテ・アドルフ・ヒットラー(LAH後に第1SS装甲師団 LSSAH)の士官、柏葉付騎士鉄十字章受賞者です。ちなみに、この写真はヒットラーの護衛に就いていた時のものです。軍服ではないのが珍しいお写真です。
一般的に親衛隊のイメージって好ましくないし、迫害という行為に関しては私もアンチなので、マックスがどんな人だったのか調べてから掲載しようと用心深く考えました。
「ヴュンシェは戦後も総統を擁護して公然と大戦中のユダヤ人の殺害が体系的であったことに疑問を呈した」とサミュエル・W・ミッチャムJr(Samuel W Mitcham Jr.)は書いておりますが、それは多分、彼がヒットラーの良い部分だけしか知らなかった、加えてHJ教育をうけていた影響によるものと思われます。(2012.1.26補足)
マックスはヒットラーの護衛に就いており、そういった発言はあったようですが、それは人種差別とは結びついていないようですし、「戦いに身を投じた武装親衛隊の将校」といった印象をうけましたので掲載することにしました。
書籍の他、Wiki英独やAxis History Forumも読ませて頂きました。ありがとうございます。ミッチャムJrさん本以外でいくつか拝読させて頂いた他の記事・書籍もありますが失念しておりますので、思い出した時に加筆させて頂きます。
1914年4月20日、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キットリッツ生まれ。バウツェンの学校を経て商業学校に通いました。
農業に興味を持っていたマックスは商業学校を卒業すると、1928年に農業組合に参加、不動産会社のマネージャーとして短期間働きました。 (フランス語のサイトには公認会計士事務所の責任者だったとも。。。大体そんな感じのお仕事です 笑)
中央のオッサンではなく右です。
1932年11月にはヒットラー・ユーゲントに参加、1933年7月にユーターボークで下士官になる為の訓練に参加した後、親衛隊に入隊しました。
士官候補生に推薦されると、バイエルン州のバート・テルツにある親衛隊士官学校(SS-Junkerschule)へ入学、1936年に卒業して親衛隊少尉へと昇進したマックスは、4月にLAHの第9中隊の小隊長に任官。1938年10月にヒットラーの警備分遣隊(SS-Begleitkommando des Führers)の当直将校になりました。。(2012.1.26補足)
ちなみにマックスは、1939年8月23日にドイツとソ連との間に結ばれた独ソ不可侵条約のドイツ代表団のメンバーでした。
1940年1月、マックスはオランダ戦とフランス戦のために、パンツァーマイヤー(Panzermeyer)ことクルト・マイヤー指揮下の第15オートバイ中隊の小隊長としてLAHに戻ります。 その後、オランダで戦い、1940年5月15日に負傷しました。
フランス戦の間、今度はマイヤーが負傷したのでマックスはオートバイ中隊(ライプシュタンダーテSSアドルフ・ヒットラー第15中隊)を指揮しました。(2012.1.26補足)
マックスは6月に総統本部に任務のために戻りましたが、1940年にこんなエピソードがあって、マックスはLAHの部隊に戻ることになりました。
「イタリア皇太子のオーバーザルツベルク訪問の時のマックスや数名の総統護衛隊の親衛隊将校の対応が良くなかったぞ」とヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルクがヒットラーの副官長で突撃隊(SA)の将軍だったヴィルヘルム・ブリュックナーに抗議しました。
ヒットラーは執事の意見を聞いて「ヴュンシェをLAHに戻そう」と言い出します。一方、ブリュックナーはヴュンシェを擁護して「カンネンベルクが要らんことを言った」と返したもんだから、ヒットラーは怒って翌年の4月にブリュックナーから副官長の職を取り上げました。
ちなみに、ヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルク(Arthur Kannenberg)はプフールのビール・ワイン醸造所の最高経営責任者として、ゲッベルス、ゲーリング、ヒットラー等よく知られたナチス党幹部と結びつき、最初はミュンヘンの党本部「褐色の家」のカジノの管理者として雇われていた人物でした。(2012.1.26補足)
(妄想)対応がなってなかったって、どんな態度だったんでしょうね? マックスは写真で見る限り、意外に表情が豊かでお茶目なので面白いことでもしちゃったのかしら??
Funny Meyer, a photo by kumicov on Flickr. いらんことをするマイヤー(左)
カンネンベルクのチクリ事件の後の1940年12月、バルカン諸国との戦いの間に、マックスはゼップ・ディートリッヒの副官としてLSSAHに戻りました。そして、マリタ作戦(ギリシャの戦い)や、1941年6月22日から始まったバルバロッサ作戦に参加しました。
旅団に拡大したLSSAHは軍集団の南側、フォン・クライストのクライスト装甲集団 (Panzergruppe 1) に配置。マックスはFi-156(シュトルヒ)でバルバロッサ作戦の偵察飛行を行います。7月31日の1回の飛行では包囲された赤軍の師団に罠をかけて(7月16日に開始されたウマーニ包囲戦にて孤立地帯を閉鎖した)ノボ・アルハンゲリスク占領に貢献しました。
この時、黒男爵ことミヒャエル・ヴィットマンはおよそ16両の戦車と対決して6両の戦車を撃破しましたが、度重なる戦闘で負傷し、本国に送還されることになります。上官だったマックスに士官候補生として推薦されたヴィットマンは、ドイツへ戻るとマックスの母校であるバート・テルツ親衛隊士官学校にて士官になる訓練をしました。
ちなみに、ドイツでパンツァー(装甲あるいは戦車)の異名を付けられた人がマイヤーを含めて3人いました。
・パンツァーシュルツ(Adelbert Schulz)
・パンツァーグラーフ(Hyazinth Graf Strachwitz von Groß-Zauche und Camminetz)
・パンツァーマイヤー(Kurt Meyer)です。
グラーフとはドイツ語で伯爵を意味しますので日本語で言うと「戦車伯爵」ですね。。。カッコよすぎる。
ロシア侵攻の間、マックスは二度も師団の指揮官代理に選ばれました。1942年2月にはドイツの防衛線を突破しようとする赤軍を食い止めるためにLSSAHの突撃砲大隊の指揮官に任命され、いくつかのソ連軍部隊を撃退するのに尽力しました。
3月にはムイス橋頭堡(Muisにはネズミという意味もあるのですがネズミで良いのかな?)の予備隊として再び赤軍の進軍を防ぎました。(2012.1.26補足)
1942年6月1日マックスは幕僚学校(幹部職に就くための訓練を行う学校)で学ぶためにベルリンへ帰国し、3ヶ月間、参謀幕僚訓練コースを受講します。終了後は親衛隊少佐に昇進。
1942年9月にLSSAHのいるロシアに戻り、突撃砲大隊の指揮官を勤めました。そして、1942年10月には新しく創設された第1SS装甲連隊第Ⅰ大隊の指揮官に任命されました。(2012.1.26補足)
この辺のマックスが何とフィギュアになってる(笑)
新しい大隊の最初の作戦地域はハリコフにありました。氷点下の極寒!ブリザードとの戦い!赤軍の進軍を食い止め、ハルキウ(現ウクライナ)を占拠するとともに、幾つかの戦いで赤軍に大打撃を与え、2月9日に作戦を終了しました。
2月10日、マックスの年上の指揮官であったマイヤー率いる第1SS偵察大隊を包囲網から救い出そうと大隊は攻撃を仕掛け、2月13日に包囲網を突破。マイヤーの部隊を壊滅から救い出しました。
その後、マックスとマイヤーの部隊は戦闘団(Kampfgruppe)を結成し、ハリコフが赤軍に放棄された2月15日までに赤軍の第VI近衛騎兵部隊(VI Guards Cavalry Corps)を破り、攻撃を続けました。 マックスはこれにより、ドイツ十字章金章を授与されました。
マイヤー「よかった、よかった、先輩は嬉しい」(嘘ですけど、そんな感じ)
2月25日、マックスの戦闘団は師団の南側面に接近している敵の部隊を発見。マックスは率先して赤軍を包囲し、52門の重砲(heavy gun)を破壊。赤軍に900人以上の戦死者を出すほどの激しい戦いを繰り広げ、この戦果によって1943年2月28日に騎士鉄十字章を授与されました。
その年の6月、親衛隊少佐となったマックスはフランスで設立された新しい部隊、第12SS装甲連隊(後の第12SS装甲師団ヒットラー・ユーゲント)に移り、指揮を命じられました。マイヤーはこの連隊長を希望していたそうですが、マックスがこの任務にあたることになりました。この師団は主にヒットラー・ユーゲントから引き抜かれた未成年のドイツ人で構成されていました。また、ほとんどが未成年者だったので煙草ではなくチョコレート等の高級なお菓子が支給されました。
1944年カーン(フランス)にて。
1944年6月6日、連合国がいわゆる「Dデイ」と銘打ってノルマンディーに上陸(オーバーロード作戦)。第12SS装甲師団は6月7日、早くも戦闘を経験することになります。
連合軍は哺乳瓶の絵を描いたりして彼らのことを「赤ちゃん師団」とからかいましたが、ノルマンディーのカーンを2ヶ月近く死守しました。連合軍との戦いにおいて、マックスの連隊は7月の初めまでに219両の戦車を破壊。彼に柏葉付騎士鉄十字章をもたらします。
ちなみに6月14日にはフリッツ・ヴィット師団長の戦死によって、マイヤーがこの師団の指揮を引き継ぎました。1944年8月のヴュンシェ戦闘団(HJ師団所属)は以下のように編成され、動いていました。
1944年8月6日:
グリムズビーにて連合軍の第271歩兵師団はオルヌ川を越えて橋を開放する。
ヴュンシェ戦闘団は敵の第271歩兵師団の勢力を和らげるため、反撃するよう命じられる。
8月7-8日:
ヴュンシェ戦闘団の戦闘序列 Kampfgruppe Wünsche
●第12SS装甲連隊本部
・〃第1大隊本部
・〃第3中隊(パンターを装備)
・〃第8中隊(IV号戦車を装備)
●第26SS装甲擲弾兵連隊「ヒットラー・ユーゲント」(Panzergrenadier Regiment)
・第I大隊(Battalion)
・第III大隊(Battalion)※本部および1個中隊を除く。
●第12SS砲兵連隊
・第III大隊(増援部隊)
・SS第101重戦車大隊(Abteilung)※M・ヴィットマン所属。
ヴュンシェ戦闘団の攻撃は撃退される。
第12SSの部隊はブレトヴィル=シュル=レーズ(Bretteville-sur-Laize)南部に移動。
カナダ軍とイギリス軍がトータライズ作戦(Operation Totalize)を開始。
8月8日:
ヴュンシェ戦闘団、カーンの南部グリムズビー(Grimbosq)橋頭堡で戦闘。
機動部隊は、24名の戦死者、91名の戦傷者、7名の行方不明者、パンター9両の損失を被る。
戦闘団(KG)は28両の連合国戦車を破壊したと推定。
司令官のクルト・マイヤーはトータライズ作戦開始の進行を感じ取り、最前線を訪問。
マイヤーは師団の対戦車部隊を見るためにサントオー(Cintheaux)に赴き、連合国の攻撃を回避するドイツ兵の再編成を試みる。
後にマイヤーは悪化している防御状況について第5装甲軍のハインリッヒ・エーバーバッハ(General Eberbach)と協議するためにユルヴィル(Urville)へ赴いている。
トータライズ作戦の結果、東から撤退するよう命じられ、8月11日にケスネイウッド (Quesnay wood) 防衛に参加。
ソース:
The 12th SS: The History of the Hitler Youth Panzer Division Volume II (Stackpole Military History)
Axis History Factbook
(2012.4.20補足)
そして8月20日の夜、ファレーズ包囲戦(1944年8月12日-8月21日)では、マックスと彼の副官Isecke(イゼッケ?)親衛隊大尉、フリッツ・フライターク親衛隊少尉、負傷した軍医が包囲されたファレーズポケットからの脱出を試みますが、ふくらはぎを負傷していたマックスと軍医は捕まってしまいました。8月24日にはIseckeが、しばらくしてフライタークが逮捕され、連合軍の捕虜となりました。
マックスとマイヤーが捕まった時についてのトピックスがAxis History Forumに上がっていました。
メイヤーズ(H.Meyers)のヒットラーユーゲント師団の本によると、イギリス軍に捕らえられた翌日、マックスたちはモントゴメリー陸軍元帥の前に連れていかれました。
モントゴメリーはマックスに「イギリス人はジュネーブ条約に基づき、すべての兵士を丁重に扱う」と話しましたが、マックスたちが連行される間に、イギリス兵は彼らの勲章や記章を奪いました。
D.アーヴィング(D.Irving)の本によると、ヒットラーは釈放するためにドイツに捕らえられた連合国将校(英軍)とマックスを交換しようとしました。しかし、それはかなえられなかった。
一方、マイヤーは納屋で捕まる前に陸軍(Heer)の格好をして自分が武装親衛隊員であることを隠そうとしましたが、マイヤーの左腕内側に親衛隊員の証である血液型の入れ墨を発見されてばれてしまったらしいです。(既に敵にも知れ渡るほど有名だったから、どのみちバレれしまうのです)
その後、マックスはドイツ高級将校のための特別な捕虜収容所であったスコットランドの「キャンプ165」の捕虜として終戦まで過ごしました。
マックスは後に同じ捕虜収容所に連れてこられたマイヤーに会っています。
戦後1948年、マックスは解放されてドイツに帰国。ヴッペルタールの工業施設のマネージャーになりました。戦前の業務に戻れたのですね~。1980年の定年を迎える頃までには結婚し、家庭を持ち、そして1995年4月17日、81回目の誕生日を迎える2、3日前に息を引き取りました。(お墓の写真/2枚目 Axis history forumから)
ちなみに、こちらには「奥様の名前はインゲボルク(Ingeborg)さん」とあり、実際にマックスと会った方はこんなふうに話していました。
「私はドイツで1976年にマックス・ヴュンシェと彼の魅力的な妻に会う素晴らしい機会を得ました。彼は家に連れて行ってくれて、我々は何時間も話しました。彼には5人の息子(娘0)がいました。彼は非常に成功した実業家で、戦後ドイツでは低姿勢を保ちました。非常に立派な紳士」
(2012.4.20補足)
最後にこの写真を。彼の真顔は特撮に出てきそうな濃い顔をしておりますが(良い意味で)笑うとかわいいんですよ(笑)笑顔がたまりません。
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