Erwin von Lahousen, a photo by kumicov on Flickr.
Source: Generalmajor Erwin Lahousen Edler von Vivremont... by Karl Glaubauf and Stefanie Lahousen
Generalmajor Erwin Heinrich René Lahousen, Edler von Vivremont. (1897–1955)
After the end of the war, He voluntarily testified against Hermann Göring and 21 other defendants at the Nuremberg War Crimes Trials in 1945-1946.
He was Anti-Nazi officer. I respect him. So I have decided to make him appear in my original story as a main character's uncle.
(6/30am)
後に、トマスさんに伺ったところ「エルヴィン・ハインリッヒ・ルネ・ラホウゼン」が姓名、「エドラー・フォン・フィフレモント」が称号、つまり騎士の家系です。「英語でいうと、サー・フィフレモント。フィフレモントは彼らの起源がある地名だったかもしれません」との事。1919年以降、オーストリアでは称号の使用が禁止になったので、ニュルンベルク裁判の字幕「Erwin Lahousen」は正解だといえます。
(オストマルクだった大戦中は別でドイツの法律に則っていたとする考えも目にします。しかし、オーストリアの法律も適用中だったらしいので、WWI後のオーストリアのやり方に同意する人たちはそれに準じていたと思われます)
(2014.6.24)
ドイツ語の文献を読んだところ、過去オーストリアでは公式に自分の願望を込めた「架空の都市」や「架空の名誉」を家族名につけることができたそうです。ナイト(Ritteなど)の称号を持つ人やそれ以上の階級の人は、通常は家族の名前にその人の極めた職業的なものを付けることができたとか。軍人においては武功をあげた土地の名を前置詞と結びつけました。そういう人々は称号を無視し、前置詞(接置詞)を付けて名乗っていたそうです。(例:Hugo von Hofmannsthalは実際のところHugo Hofmann Edler von Hofmannsthalという名だった)パイロットのゲオルク・ケンツィアンも本当の名前はゲオルク・ケンツィアン・エドラー・フォン・ケンツィハウゼン(Georg Kenzian Edler von Kenzianshausen)でしたが、称号を省いていますね。「エドラー・フォン(Edler von)」は名誉称号とありました。
もしかすると、ラホウゼンさんの称号「エドラー・フォン・フィフレモント」はそういった架空の都市かもしれません。
1919年以降は、名前に「von」等の帰属を表す前置詞は廃止となり、公式な場で名乗ることは違法となっています。ただし、渾名やペンネームとして使う場合はOKだそうです。
ただ、フランスの古い貴族の家系といろんな本で紹介されているので、ドイツでは騎士ですがフランスでは貴族だったのかもしれません。へなちょこ翻訳ですけど、この部分。「ラホウゼンの家系は17世紀の宗教戦争の間に、ポーランドのシレジアに定住した敬けんなフランス貴族の末裔であった」と洋書にもありました。エルヴィンさんが生まれた頃、ラホウゼン家の地域がオーストリア=ハンガリー二重帝国(ハプスブルグ帝国の北部)になったもんで、エルヴィンさんはドイツ語とフランス語に加えて中央ヨーロッパの言語(ポーランド語、チェコ語、マジャール語)を完全に把握できたそうで、それが後の諜報任務に役立つことになります。
私のブログを見てくださっている皆様にはご存じのとおり、ラホウゼンさんの遠縁の甥としてフリッツ・ラホウゼン艦長は登場します。フィクションとはいえ大分経つので、名前を変更するのは避けたかった。ちょっと焦りましたよ~(笑)相変わらず、英語のウィキではvon Lahousenになっているし。これでは誤解してしまう。でも、ラホウゼンがファミリーネームでしたので印象はあまり変えなくて済むかな、と思っています。
(7/21am)
上の写真、ラホウゼンさんが証言台に上がるまでの経緯が英語の文献に書かれていたのでご紹介します。
ラホウゼンはハノーファーの近くのバートネンドルフの小さなスパにある複合特殊任務個別尋問所に移された。(この後、国際的な悪評を得た何人かのイギリス将校の軍法会議に連行された)彼もまた、イギリスの司令部が収容所の看守として雇用した軍の囚人によって殴られ、蹴られて、何本かの歯をやられた。小男のそのような扱いが、恐らくラホウゼンの口に封をしたのだろう。だが、ラホウゼンはそれだけ汚い言葉遣いを受けても本当の意味で「将校であり、紳士」であった。そして、バートネンドルフでの殴打にもかかわらず、彼は知っていることを伝えようと決心した。
ニュルンベルクでナチ・リーダーよりも長生きしているゲーリングや他のナチス指導者の生き残りの裁判で証拠を与えることが故郷オーストリアに対する義務と考えたラホウゼンは、収容所で(野蛮な奴らとの関係を持たない)イギリスの諜報機関の将校へ情報を提供した。
これは司法省ロバートH.ジャクソン(裁判の米国起訴チームのリーダー)にすぐに知らされ、ラホウゼンはニュルンベルクに飛ばされた。1945年12月の最初の数日に、細くてやつれたラホウゼンが現れたのはそういう訳だった。(連合軍検察当局に有利な初の一流の証人として)
※12月の数日とありましたが、ドキュメンタリーや記録文章が間違いでなければラホウゼンさんが証言した日にちは11月30日です。何で覚えてるかというと、私の誕生月日だからなんですよ(笑)
ラホウゼンの登場は世界的センセーションを巻き起こした。優秀なアメリカの監視員・ウィリアム・L・シャイラーは、ベルリン日記の終わりに以下のように記した。
「ついにドイツ人が、しかも将軍が(まあ、彼はオーストリア人だが、それくらい大目に見よう)世界の前に公的に立つ勇気を持った。ナチス・ドイツが何であったかを示す為、彼はナチスの奴らに焼きを入れるだろう!」
ゲーリング、リッペントロップ、そしてとりわけ、(ラホウゼンと同じ)オーストリア人であるゲシュタポ最後の長カルテンブルンナーは、彼らの極秘犯罪を世界へ厳粛に暴露した、背の高い、頭の薄い男性に思わず被告席から飛び上がりそうになった。時には、このカルテンブルンナー長官はラホウゼンのしわがれ声を聞いて(興奮し)法廷の向こう側の数ヤード離れた席に拘束されてしまった。
歴史的なパフォーマンスの終盤、ついにラホウゼンが証言台を去ると法廷の向こう側でヘルマン・ゲーリングの険しい声がとどろいた。
「ヤヴォール(そうだとも)リッベントロップ。あれこそが、吊るし忘れたもう一人だ!」
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