皆さま、こんにちは。梅雨本番の近頃、本当に暑いですね。
さて、大戦時にヒットラーが法王ピウス12世を誘拐する計画をしていたというニュースがあったのですが、今回はCatholic Answers Forumsからこれに関する2004年の記事をご紹介したいと思います。
……で、どうしてこの記事に辿り着いたかと言いますと、私のWWII物語にも登場する(して頂いている 汗)エルヴィン・ラホウゼンさんの戦争日記(=戦時の作戦を記録したもの)について調べていたら7月20日事件に引っかかり、そこにこういう記述があったからです。
「その証拠は、ピウス12世を誘拐または殺そうとするヒトラーの裏をかくため、7月20日事件の共謀者ヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン大佐、ラホウゼン大佐、ヴィルヘルム・カナリス提督が1943年7月29日にヴェネツィアへ向かい、イタリアの情報将校チェーザレ・アメ将軍(伊情報部の長)に陰謀を報告したことに関与していることを示すものである」
(追加: 6/23 pm)↑と書いてあることは殆ど同じですが、別の情報もご紹介。
ラホウゼンさんは、1946年2月1日のニュルンベルク裁判の供述書(Warnreise Testimony 1330-1430)で「ヒットラーはピウス12世やイタリア国王を誘拐あるいは殺害することでイタリア人を罰する計画を立てるよう、国家保安本部に命令していた」と述べています。
しかし、ラホウゼンさんは「ドイツの対諜報作戦を聞いたカナリス提督が、1943年7月29~30日のヴェネツィアの密会中に、同業者であったイタリアの情報将校チェーザレ・アメ将軍へこれを知らせた。ラホウゼンさん、ヴェッセル・フライターク・フォン・ローリングホーフェン大佐も出席した会議だった。アメはどうやらそのニュースを広めたらしく、計画は打ち切られた」と語りました。
(ここまでが追加分)
今見かけたのですが、これはWikiのローリングホーフェンさんのページにも書かれていますね。これによりますとローリングホーフェンさんがAbwehrに入ったのは、
「1942年始めに保安警察と対立し、ウクライナの親衛隊高官に目を付けられたが、1943年にカナリスの国防軍情報部(Abwehr)に配属されることで親衛隊による捜査を免れた。参謀大佐として第Ⅱ課で破壊活動を担当した」
という経緯があったからだそうです。その第Ⅱ課の長がご存じラホウゼンさん。つまり、ローリングホーフェンさんはラホウゼンさんの部下(ランクが同じなので相棒みたいな感じ?)です。
彼らは皆、反ナチ派でクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵とともに、ヒットラー暗殺計画に関与していました。
7月26日、ゲシュタポに計画への関与をつかまれたローリングホーフェンさんは逮捕される直前に自殺。カナリス提督は逮捕され、酷い拷問の後、連合軍が数日で到着するという頃に処刑されました。
Abwehr高官の生き残り、ラホウゼンさんは1943年秋にAbwehrから東部戦線へ移動させられ、スモレンスク計画(1943年3月13日の火花作戦)で使われる爆弾を供給し、マンシュタインの副官シュタールベルクの従兄弟ヘニング・フォン・トレスコウや、彼の副官で7月20日の生き残りファビアン・フォン・シュラーブレンドルフらとヒットラーの搭乗する飛行機を狙いますが、あまりの寒さに爆発しなかった。
そして、約1年後にあの暗殺未遂事件が起こりますが、前線で作戦行動中だったためか事件への関与は見過ごされました。カナリス提督と出会う前から一流の情報将校だったラホウゼンさんは、かなり慎重な人物だったのです。1944年7月19日、ラホウゼンさんは重砲によって重傷を負い、ドイツ十字章金章までもらっています。
ラホウゼンさんは戦後、この件を含むナチス党の戦争犯罪に関する重要な証言者としてニュルンベルク裁判で証言しました。
(追加: 6/23 pm)
アッベニーレ紙によれば、1972年のミュンヘンでヴェッセルの息子ニキ・フライターク・ローリングホーフェンさんはニュルンベルクにおけるラホウゼンの供述書に実質上、同様の説明をしたそうです。
(ここまでが追加分)
その話はまた別の機会か物語の中でするとして、今回はピウス12世誘拐計画に話しを戻しましょう。つたない翻訳です、ご了承くださいませ。
(ピウス12世誘拐計画に関する再現フィルム)
1944年ドイツがローマから撤退する直前にイタリア地域の親衛隊及び警察高級指導者カール・フリードリヒ・オットー・ヴォルフSS大将(Karl Friedrich Otto Wolff)はヒットラーからピウス12世を誘拐するよう命令されていたと語った。
イタリアのローマカトリック教会傘下のアッベニーレ紙(Avvenire)は「論争の的であった戦時中の法王を聖人にすることに賛成しバチカンに提出される文書で、新たな計画の詳細が出てきた」と報じた。
(2005年のガーディアンにも記事が出ていました。)
ドイツによる占領時代、法王を誘拐する策略の要因は過去に一部の歴史家からすでに出ていたが、アッベニーレ紙の全面記事には「その詳細は新しいものだ」とあった。
「独裁者はいずれキリスト教を廃止し、一種の新しい世界的な宗教として国家社会主義を強要したかったので、法王が世界支配のための計画の障害となることを恐れた」と紙は語る。
「ラバト作戦(operation Rabat)」という暗号名のこの計画は、当初1943年の間に計画されたが、何らかの理由により実行されなかったと、アッベニーレ紙は伝えている。
(追加: 6/23 pm)
1943年9月13日にドイツで行われた会談で、ヒットラーはヴォルフに言った。
「君に特別な任務がある、ヴォルフ君。私が君にその指令を与える前に誰かと議論するまでもなく、それは君の任務である。親衛隊全国指導者(ヒムラー)はそのことを知っている。分かったか?……私は君と君の部隊が一刻も早く、ヴァチカン市国を占拠し、確実にその書類や重要な美術品、そして法王と北のローマ教皇庁を持ってくることを望む。私は法王が連合国や彼らの政治的圧力や政治的影響力に落ちることを望まない。ヴァチカンは既にスパイの巣窟で反国家社会主義プロパガンダの中心地なのだ」
(ここまでが追加分)
紙によると、ヴォルフはヒットラーとの会談からローマに戻り、法王との密会を手配。司祭の助けを借りて、夜に私服を着てヴァチカンを訪れた。
ヴォルフは「ローマの状況が混乱していて危険に溢れていたので」と法王にヒットラーの命令について話し「私自身がその命令を遂行する気はない」ことを保証したが、慎重でいるよう警告したと、同紙は伝えている。
ムッソリーニ政権は既に崩壊し、ムッソリーニは北イタリアでドイツの支援を受けてイタリア社会共和国を成立した。(ヴォルフさんはここで働きますが、奥さんと離婚してしまったそうです)ドイツによるローマ占領はその日が最後だった。連合軍は首都に向かって進み、1944年6月5日に首都は解放された。
ヴォルフの誠意を試すため、法王は2人のイタリアのレジスタンス指導者を自由にするよう彼に頼んだ。ヴォルフは彼らを解放するよう手配したと、新聞は伝えた。
「教会当局がピウス12世を聖人にする尽力を支持するために、ヴォルフがドイツで亡くなる前に証言させて証拠を蓄積している」とアッベニーレ紙は述べた。
しかし、ピウス12世に対するヒットラーの軽蔑の報告書は、彼をホロコーストを故意に見て見ぬふりをしたとして訴えた歴史家や作家による他の見解と対比される。
ピウス12世を聖人にさせるヴァチカンの行為は、ユダヤからの懸念にもかかわらず延期されることも、見送られることもなかった。そして、ヴァチカンの歴史家が多くの証拠書類量を検討し始めた3月に、彼らは新たな局面に入った。
ヴァチカンは「カトリックとユダヤの運命を悪化させるのを恐れたため、ピウス12世は意見を強く述べなかった。そして、彼がユダヤ人を救うために舞台裏で働いた」と主張する。
ピウス12世の法王職(地位・任期)は、戦後のカトリックとユダヤの関係で最も慎重を要する問題の1つだった。1998年の「わたしたちは記憶にとどめます―ショアーを反省して(We Remember, a Reflection on the Shoah)」と呼ばれているヴァチカンの文書には、広範囲にわたるユダヤの不満があって、法王が黙っていることでホロコーストは促進されたという告発から、法王を効果的に赦免した。しかし、ヨハネ・パウロ2世は強くピウス12世を弁護して、彼を「偉大な法王」と呼んだ。(2009年12月、ピウス12世は聖人へ繋がる「尊者」に内定したそうです)
ダン・カーズマン(Dan Kurzman)著書の「A Special Mission: Hitler's Secret Plot to Seize the Vatican and Kidnap Pope Pius XII」という本もでているようですが、「短いメモは曖昧さや不正確な情報が多い」と歴史家István Deákは本に対して不満を言っています。
果たして、法王誘拐計画を阻止したのはヴォルフさんなのか、カナリスさんたちなのか?何はともあれ、それぞれが同じ思いで法王に会いにいったことは確かなようです。
とても魅力的な記事でした。
ReplyDeleteまた遊びに来ます!!
履歴書バイブルさま
ReplyDeleteコメントありがとうございます!!
お待ちしておりますー。