Kumicov talks about her historical novel or artwork.
物語制作日誌とアートワーク、その時代の歴史あれこれ。
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Nov 26, 2011
まやかしの頃のオランダとフェンロー事件周辺を何となく
1940年5月11日(土)オランダの新聞「Algemeen Handesblad」より。「我々に対空準備ができていることを示す」の見出しがあります。しかし、数日後には。。。
(上の古新聞の一部はオランダ人の友人Mから頂きました)
1939年、第二次世界大戦が勃発した時、この国は先の大戦のように中立的立場にとどまる、と多くのオランダ人が信じていました。ドイツ軍によるポーランド侵攻を受け、「まやかし戦争」の数カ月間、この姿勢を正当化しているようにも見えました。1939年オランダ陸軍はすぐさま動員されましたが、1940年4月までに全てが整う状態ではありませんでした。
兆候は無視されました。その中には数回の衝突があり、中でも注目すべきは親衛隊情報部(SD)のメンバーがオランダで2名の英SISメンバーを誘拐し、1名のオランダ情報将校を殺害した軍事行動「フェンロー事件」でした。
(英wikiからの抜粋)
英wikiでは「フェンロー事件はドイツ国防軍情報部(Abwehr)がやった」となっていますが、こちらの文では修正しました。実行者としては間違い。あのナウヨックス、シェレンベルクが絡んでいたことで知られています。
事件の舞台は一見ファミレスのような外観のこちら、オランダ・リンブルフ州(Limburg)の国境の町フェンローのフレンチカフェ「Café Backus(カフェバッカス)」
From: アムステルダム戦争ドキュメンテーションのための研究所 (NIOD)
Backus Venlo
Herumgerberg 417-5916 BC Venlo - Die Niederlände
営業時間:月曜~金曜 08:00-18:00 土曜 08:00-17:00(日曜はお休み)
魚料理はAM9:00からオープンしています、とのこと。
現在はカフェ以外にもスーパーマーケットもやっているようです。あ、スミノフ(ロシアの老舗ウォッカ)がある。それから、リコリス入りのグミ(ドロップ)も、自社ブランドのコーヒー豆も売っているようですね。「ジェイコブスの戴冠式」というコーヒー豆も…ネ●カフェも(笑)「修道院のチーズ(Höllandischer Klosterkäse)」ってどんなだろう?
今度、Mにカフェ・バッカスに行ったことがあるか聞いてみます。今彼は旅行中なのでオランダに帰ってきてからになりますね(^^;)
それから、もし時間があれば「フェンロー事件」のことをもう少し踏み込んで書けたらと思っています。今回は時間が無いので導入編。
「ビュルガーブロイケラー(Bürgerbräukeller)」の暗殺未遂事件を伝える当時のニュース映像
ただし、Abwehrも関係していたようです。エルヴィン・ラホウゼンさんの日記には、1939年11月9日のドイツとオランダの国境地帯での誘拐が、実は2日前に起こったゲオルク・エルザーによるミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー(Bürgerbräukeller)」の暗殺未遂事件から九死に一生を得たヒットラーの怒りの矛先を、ハイドリヒに向けるための必死の試みだったという新事実も書かれています。どんな新事実かはまだ読んでいる途中...(汗)
(C. Wighton and G. Peis本より)
ベルリンからのさらなる直接的な懸念の警告は、1940年の最初の月すぐに政府によって受信されました。オランダ軍はそこへ配属され、バート・サス少佐(Gijsbertus Jacobus "Bert" Sas 1892年8月1日- 1948年10月20日)はAbwehrの高官ハンス・オスター大佐(Hans Oster)との良好な関係を定着させていました。
オスターは対オランダ、対ベルギー、対フランス攻撃のためのドイツの計画に関してサスに警告し、サスはそれを見逃します。オスターが1940年5月10日(侵攻が始まった日)という正しい日付を提供したにもかかわらず、攻撃が数回延期されたのでオランダ政府もそれを深刻にとらえませんでした。
オスターさんはドイツ諜報関係に興味のある方ならご存知かと思いますが、反ヒットラー派カナリス提督の副官チョイ悪オヤジです(ファッション的にも 笑)。正直な人でヒットラー派に対する嫌悪も隠そうとはしなかったんですけど、やがて悲しい結末へと至ります。
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