ああ、さっき書いていた記事がフリーズして消えてしまいましたよ(泣)
実は、ヴィットマンの記事の時に友達リーのジョー大叔父さまを思い出して、少しだけ彼のことを書こうと思ったのですが、別のジョーおじいさんのことを思い出してしまったので、ここで書こうと思いまして。ほんの少しですけど。
リーからは既に「ゴールドビーチから上陸した人のインタビューをしたよ」との返事をもらっていて、彼の話を聞くのが楽しみです。
ゴルゴ13かコンバット!に登場しそうなジョー大叔父さまはDディの1944年6月6日、ソード・ビーチへ上陸。大叔父さまはイギリス第11機甲師団「ブラック・ブル(The Black Bull)」 王立砲兵隊 第151野戦砲兵(キャリック伯エアシャイア・ヨーマンリー)連隊のシャーマン戦車とコメット戦車の砲手でした。
第151野戦砲兵連隊の歴史は1794年まで遡ることができます。1940年に連隊は王立砲兵隊の一部となり、1942年までイギリスにいて、最初は第46歩兵師団に配属されてチュニジアで戦い、1944年に第11機甲師団に配属されてからは北西ヨーロッパ侵攻作戦に参加していました。
ヴィットマンを撃破したジョーおじいさんは第1ノーサンプトンシャー・ヨーマンリー連隊でしたが、この師団には第2ノーサンプトンシャー・ヨーマンリー連隊がいたようです。大叔父様は「シャーマンよりコメットが好きだった。コメットはティーガーと正面から戦うのに適していた」と言っていたらしい。
「史上最大の作戦」でもあったように、ドイツ空軍のヨーゼフ・"ピップス"・プリラーさんがフォッケウルフFw190A-8に乗り、彼の僚機を伴って低空迎撃した事で知られていますが、その場所がソードビーチだったそうですねー。(2012.8.13)
直接画像を貼るのは申し訳ない...と思っていたら、YouTubeでリー自身がジョー大叔父様のイメージ映像を作っていましたのでご紹介します。
1945年4月15日ジョー大叔父様の所属する戦車部隊はニーダーザクセン州ベルゲン=ベルゼン強制収容所へ一番に着き、彼らを解放したそうです。
「恐ろしく惨たらしい光景とぞっとする程の悪臭がした」と大叔父様はリーに語りました。
調べると、ジョー大叔父さまの師団が開放したベルゲン=ベルゼン強制収容所は疫病が蔓延し過ぎて焼き払われたようですが、ここはアウシュビッツから移送されてきたアンネ・フランク姉妹が息を引き取った場所でした。
終戦近くの3月31日頃、アンネと姉マルゴットはベルゲン・ベルゼン強制収容所にてチフスで亡くなったそうですが、これはオランダ赤十字による発表であり特定ではないとの事。
ちなみに、チェコのカレル・チャペックのお兄さんはヨゼフという画家で、ベルゲン=ベルゼン強制収容所で亡くなったそうですね。ナチス政権を批判をしたことが原因だったらしいです。
Dディは日本人の私には遠い話のように思えますが、当たり前のことだけど彼らはその歴史の延長線上にいるのだなと改めて感じました。
追記:
ソード・ビーチのことを調べたところ
「主目標は、カーン(Caen)とその近くのカルピケ飛行場を直ちに確保して西へ進軍することだった。上陸は他の海岸よりも抵抗は弱く、45分の戦闘で陸へ上がり、東部側面では昼までに特殊部隊がオール川と降下部隊の地点に到着したが、英軍は西部のカナダ軍とすぐに連携できず、16時には第21装甲師団から2度の攻撃を受け、カーン―リオン・シュル・メール、リュック・シュル・メール間の海岸へ押し戻された」
とありました。
第21装甲師団は「砂漠の狐」ことエルヴィン・ロンメル元帥が指揮を執っていました。北アフリカ(DAK)の部隊は、オランダからロワール全域のドイツ軍のために、ロンメル元帥の指揮下に入っていたのです。
「侵攻は海岸で食い止めなければならないという案をハインツ・グデーリアンとフォン・ルントシュテットは反対するだろう、とロンメルは思っていた。ヒットラーはためらい、フォン·ルントシュテットのために役に立たぬ程度に離れた場所に彼ら(ロンメル)を置いた。
連合国着陸の1日目、第21装甲師団は単独で動いた。敵の空爆に妨げられながら、何とかランヴィル(Ranville)で英落下傘部隊を見つけて撤退させた。師団は昼近くに撤退命令を受けるまで、イギリスに悪戦苦闘した。
夜、イギリスのカーンへの前進を視察するよう命じられ、ドイツはリオン=シュル=メール海岸への到着に成功し、英第3歩兵師団と第3カナダ師団間を遮断した。
ロンメルは侵攻の最初の数日の間は前線から離れていたが、6月9日に後方に到着して命令を装った。師団はバイユーを奪還するため北西で軍事行動を開始していたゼップ・ディートリッヒの指揮下の2つのSS部隊に集められたが、師団の兵士が爆撃で殺された時にこの計画は断念された。(en)」
師団は6月と7月を通して前線の一部として戦い続け、6月6日~7月8日に師団は交代要員として17輌のIV号戦車が到着すると、IV号戦車の54輌の損失を報告したとのこと。カーンと言えば、パンツァーマイヤーとマックス・ヴュンシェのHJ師団にLSSAHのパイパーとミヒャエル・ヴィットマンのSS第101重戦車大隊が戦ったところですよね。興奮して収拾がつかなくなる前にこの辺で終わりにします(笑)
他ソース:
戦時の記憶プロジェクト(en)
List of British Army Yeomanry Regiments converted to Royal Artillery(en)
ホロコースト百科事典―第11機甲師団(イギリス en)
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