Loewy(5 November 1893 – 14 July 1986) Link
さかきです。高校時代に教科書で習った「口紅から機関車まで」の工業デザインの父レイモンド・ローウィ(なのにこの画!!)で思い出すことは新宿にあるピースカフェ。60過ぎた感じのオジサマが黒いワイシャツのボタンをヘソ近くまで全開にして、お相手(恋人)のおばさまを誘惑の眼差しで見ながらコーヒーフロートを飲んでいた姿。新宿(と包括するな 汗)は面白いです。
ローウィも第一次世界大戦中になかなか興味深い体験をしていました。若きローウィの第一次世界大戦話は、こちらの記事を個人的にメモ&ご紹介させて頂きたいと思います。
ローウィ(Raymond Fernand Loewy)はパリ生まれ。彼の父はオーストリア系フランス人ジャーナリストだった。彼の母は息子に気付いてもらいたかった。「同情されるより妬まれる方がいい」
ローウィの家族構成
若いレイモンドは自動車や、飛行機、機関車に強い関心を示し、ずっとそれらをスケッチしていた。ローウィの兄弟の1人は外科医になり、もう一人は銀行家になった。レイモンドはとても頭が良く、12歳でパリ大学に入り、電気工学を専攻した。
3年後の1908年、彼はゴムバンドで動く模型飛行機を設計し、一番長く飛ばしてゴードンベネット大会で優勝した。さらに、この飛行機のキットを製造し、設計の特許をフランスとイギリスに売却した。なんちゅう、ガキぢゃ 笑!
1910年、彼は高い工学の学位を得ようとエコール・ド・ラノーEcole de Laneauに入学。 しかし、第一次世界大戦が勃発、フランス軍工兵部隊に入隊。1918年に除隊するまでに兵卒から大尉になっていた。
最初に支給された軍服が「着るに耐えないほど、だぶだぶだったので、後でそれをスーツのように仕立て直した」と彼は人に話して聞かせた。泥だらけの塹壕(陣地)はパリの壁紙やアートワークで飾った。戦時初期の任務は電信ケーブルを敷設することだった。
彼は毎晩、大きな巻いた針金を引きずりながら匍匐前進して、孤立したフランスの前哨基地からドイツの陣地へ可能な限りケーブルを引いた。
彼は4つの表彰状、加えてInterallied Victory Medalと共に軍功章を授与された。 終戦間際にはUS Expeditionary Forcesへの連絡将校を務め、これが英語の上達に役立ったと述べた。
戦後は大学を卒業、1919年にわずか40ドルを持って米国の船に乗り込んだ。 そしてこうなった(違う 笑)この続きは多分日本語になっていると思うのでこの辺で。
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