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Mar 23, 2013

モーリス・ラヴェルの第一次世界大戦 Maurice Ravel in Great War

Maurice Ravel by deSingel International Arts Campus
Maurice Ravel on Flickr.

I may not look it, I've been taken the piano lesson from 4 years old to 15 years old. Now I can just play this a little because I have a long blank.
Joseph-Maurice Ravel. He is dandy and funny... When I was a teenager, I've felt that. I've often read many composers episode. His work "Le Tombeau de Couperin" is written for his friends. They were passed away by Great War battle. This piano suite is composed between 1914 and 1917. Ravel himself drew the first edition cover.

I recommend Lithuanian-born French pianist Vlado Perlemuter version as historical value. Perlemuter and Ravel had friendship.



VI. Toccata by Vlado Perlemuter

I. Prélude for Jacques Charlot.
He was a French musician and fought as a Lieutenant in the army. (-March 3, 1915)
And Claude Debussy was made "En blanc et noir - 2. Lent. Sombre" for Charlot.

II. Fugue for Jean Cruppi.
He was a French musician and fought as  a Lieutenant in the French army. (-1914-18)

III. Forlane For Gabriel Deluc.
He was a French painter (1883 Saint-Jean-de-Luz - 1916 Souain-Perthes-lès-Hurlus).

IV. Rigaudon for Pierre and Pascal Gaudin.
Pierre(1878-1914) and Pascal(1883-1914) were working in the fish trading business.
It was their father's work. Both died in battle at November 12.

V. Menuet for Jean Dreyfus.
Ravel and Dreyfus family had friendship. Dreyfus died in battle at late 1916 or 1917.

VI. Toccata for Joseph de Marliave.
He was a French musicologist and has published the book "Beethoven's Quartets".


Piano Concerto for the Left Hand in D major by Paul Wittgenstein

And Ravel has written "Le Concerto pour la main gauche en ré majeur" for Austrian Pianist Paul Wittgenstein. He is an older brother of philosopher Ludwig Wittgenstein. Paul lost his right hand in WWI. So, he did request some piano tunes for his left hand to some composers(Ravel is included in them). Lavelle oneself told, "It was a very interesting experience".

On November 27 1931, the premiere of this music was carried out in Vienna, but Paul couldn't play it according to score because it was too difficult tune, and Paul did added his arrangement without Ravel's permission. And Paul criticized Ravel. So, their relationship became bad.

Sometimes, our friend relationship becomes difficult. Maybe it can say that it became to so for their professional prides. We can't say that one is right and the other is wrong.
Oops, I departed from the main talk very much!

Ravel himself also was the French army driver during the war. Ravel tried to be pilot for his light weight and 5ft body, but he couldn't it, so became to driver.
In other side, Hitler had joined as Unteroffizier in German force. Of course, von Richthofen brothers and his fellows in the sky, too. 



 私は4歳から15歳までピアノのレッスンを受けていました。長いブランクがあって今はあまり弾くことはできないけれど、ピアノ曲は良いですね。クラシック、ジャズ、ボサノバ、デキシー...など等。音に癒される、ホッとするのです。

 クラシックがお好きな人はもちろんのこと、そう興味のない人でも聞いたことがありますね、ボレロ、亡き王女のためのパヴァーヌ。1枚目の写真がその作曲家、ジョゼフ=モーリス・ラヴェル(1875年3月7日 - 1937年12月28日)。

 残されている写真、ダンディですね。10代の初めはリストマニアだったのですが、次第にラヴェルやラフマニノフやらチャイコフスキーやら、どこか一歩引いたような作品に惹かれるようになりました。(もちろんリストは今でも好きです。ネタを沢山持っている人だし 笑)
 私のたった一人の愛人、それが音楽だ
と言っていたラヴェル。同性愛疑惑も浮上しましたが、確証がなかったらしい。

トラック野郎モーリス!

 フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの第1次世界大戦時代を調べてみました。
 ラヴェルは小柄で軽量(5フィート=152cm)という利点を生かしてパイロットになろうと決めました。その任務を確保するためにあらゆる手段を試しましたが、年齢と虚弱体質のためにパイロットとして入隊することは許されませんでした。

 その代わりに、彼はトラックの運転手(野戦病院の運転手)になってヴェルダンの前線に配備されます。ある時、ラヴェルの部隊は若いアドルフ・ヒットラーの所属するドイツの部隊と交戦しました。トラック運転手とはいえ、最前線で砲弾の飛び交う中での任務は非常に危険なものでした。彼等の働きがなければ、味方の戦況は悪くなりますから、当然敵にも狙われる訳で。補給は重要です。

 ところが1917年1月15日、バスク人の血を引く彼の母が他界し、祖国の人々の耐え忍ぶ苦しみを覆うさまざまな暗い影を増大させ、ラヴェル曰く「最悪な絶望」に陥り、健康を害しました。しかし、戦争中にラヴェルは尊敬する作曲家フランソワ・クープラン(François Couperin)の音楽の理想の記念に基づくオマージュとして、最も人気のある作品「クープランの墓」に着手しました。(構想を練り始めたのは1914年、1919年4月11日に初公開)

 ラヴェル弾きと言われた、リトアニア出身のフランスのピアニスト、ヴラド・ペルルミュテール(ラヴェルから指導を受けた)が弾いているのがラヴェルの「クープランの墓」です。(VI. Toccata by Vlado Perlemuter 参照)
 彼は第一次世界大戦で戦死した友たち一人ひとりに各楽章を捧げ、初版のカバー絵は彼自身が描きました。(2枚目)


I. プレリュード

ジャック・シャルロー中尉のために。
彼はフランスの音楽家で、中尉として大戦で戦い、1915年3月3日に戦死しました。
また、作曲家クロード・ドビュッシーは1915年、彼の作品「白と黒で(En blanc et noir)」の第2楽章「Lent. Sombre (緩やかに、沈痛に)」をシャルロー中尉に捧げています。これには15世紀フランスの放浪詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon)の詩「フランスの敵へのバラードBallade contre les ennemis de la France)」の一説が引用されています。

Prince, porté soit des serfs Eolus
En la forêt où domine Glaucus,
Ou privé soit de paix et d'espérance
Car digne n'est de posséder vertus,
Qui mal voudroit au royaume de France!

君主よ、エオルスの奴隷と化すのか
グラウコスの支配する森の中で
それとも、平和も希望も望むのか
美徳を有する値はないのだ
フランス王国に災いを望む者には!
(個人的なへなちょこ翻訳です、間違っていたら済みません 汗)

 パリでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド(ドビュッシー、唯一のオペラ作品)」の初演に感動したラヴェルは1902年にドビュッシーへ会いにいきましたが、仲良しにはならなかったようですね(汗)ラヴェルの作品がドビュッシーの亜種扱いされていた頃でしたが、二人の音楽スタイルは違う。新古典主義派と印象主義派でした。

ドビュッシー大尉、かっこいいやん!何故あんなデコの息子…やめとこ。

 脇道ついでにドビュッシーの話ですが、彼は小卒。お父さんのマニュエル=アシル・ドビュッシー(Manuel-Achille Debussy 1836-1910)が破天荒な人で職を転々とした為だったようです。マニュエル=アシル父さんは海兵隊にいた経験を買われてパリ・コミューンに入隊し、まもなく少尉として任官、そう経たないうちに大尉に昇進。政府軍とにらみ合い、戦いました。
 パリ・コミューンが鎮圧されると、5月22日にドビュッシー大尉は捕虜になり、収監されました。ところが、それが息子の出世のきっかけになります。獄中で出会ったシャルル・ド・シヴリーは作曲家で、彼の母は女流ピアニストでした。息子クロードはそのピアニストに師事、翌年10歳でパリ音楽院へ入学したのでした。


II. フーガ
ジャン・クルッピ中尉のために。
クルッピ中尉はフランス公使ジャン・クルッピの同名の息子で、1914年から1918年まで従軍し、戦死しました。
※Lieutenant...仏語で中尉、Sous-lieutenant...少尉


III. フォルラーヌ
ガブリエル・ドゥリュック中尉のために。
 彼はフランスの画家でした。ラヴェルと同じバスク人の血を引いていました。画家のお父さんと共にバスク地方のいくつかの教会の装飾を担当し、19世紀パリに設立されたフランスの美術学校エコール・デ・ボザールへ進学します。
 確かな証拠はないらしいのですが、1911年から1912年の間、サン=ジャン=ド=リュズ訪問中のラヴェルに出会ったとされています。パリのカジノで53点もの絵画を展示し、作品のいくつかはラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」へのインスピレーションになったとも。
 1914年に大戦が始まると、義勇兵として三国協商の衛生部隊に入隊。翌年、戦闘部隊に加わりました。1916年に彼は軍曹に昇進し、後に中尉となりました。
1916年9月15日シャンパーニュ地方スアン=ペルト=レ=ユリュ(Souain-Perthes-lès-Hurlus)、ドゥリュック中尉はドイツ軍との戦闘中に戦死しました。ここには、大きな軍事墓地があります。
 サンパウロ美術館所蔵のCena de Caféという彼の作品には、カフェの常連客だった若いベニート・ムッソリーニが描かれているそうです。(参照

 ちなみに、「青騎士」の一員だったドイツの画家アウグスト・マッケ(1887-1914)もこの地で戦死しています。
 1914年8月8日、マッケは自ら前線へ志願し、第160ライン第9歩兵連隊9. Rheinisches Infanterie-Regiment Nr.160)に配属されます。ライン歩兵連隊というと、フリードリヒ・パウルス将軍の副官ヴィルヘルム・アダムが第30ライン第4歩兵「ヴェルデル伯」連隊(Infanterie-Regiment „Graf Werder“ (4. Rheinisches) Nr. 30)の第5中隊にいたらしい。(おっと!話が逸れた)
 そして、1914年9月26日に准尉(Offizierstellvertreter)として27歳の若さで西部戦線にて戦死しました。新たな方向を模索していた時の死。前線からの彼の手紙には、戦争の恐怖と残酷さが書かれていました。
 国のために戦ったというのに、国家社会主義の時代には「退廃芸術」の烙印を押され、コレクションから排除されて1937年の同展覧会に出品されてしまいます。それで、ドイツの将校が「彼は1級鉄十字章を授与された将校だぞ、何たる仕打ちだ!」と抗議し、マッケの作品は展示作品から取り除かれました。
 マッケはスアン軍事墓地に埋葬されています。


V. リゴドン
ピエールとパスカル・ゴーダン兄弟のために。
ピエール(1878-1914)とパスカル(1883-1914)は父の家業である魚の取引事業を手伝っていました。どちらとも1914年11月12日に戦死しています。


IV. メヌエット
ジャン・ドレフュスのために。
ラヴェルとドレフュスは家族ぐるみの付き合いをしていました。ドレフュスは1916年後半または1917年に戦死しました。


VI. トッカータ
ジョゼフ・ドゥ・マルリアーヴ大尉(1873年 – 1914年)のために。
彼はフランスの音楽学者で研究書「ベートーヴェンの四重奏曲」等を書いています。奥様のマルグリット・ロンはピアニストでありピアノ教育者でした。


 調べていくうちに「ああ、この人も、あの人も」となって、脇道に逸れまくりました(笑)
1932年10月、演奏旅行からの岐路の途中でラヴェルは自動車事故で頭部を打ちつけ、打撲を負いました。1933年には手足が麻痺し始め、作曲活動はできなくなりました。そして、1937年12月28日、パリの病院で62歳で息を引き取りました。

 文献を読んでいて笑ってしまったのですが「ラヴェルはじっとしていることができない人で、作品を書くときは作品と無関係のところを探求したりした」らしい。

その脱線っぷり、身にしみるほど思い当たるんですが...。

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