1944年6月13日はフランス・ノルマンディー、ヴィレル・ボカージュの戦いが行われた日。この日の9:00はティーガー攻撃開始の時刻です。
この戦いの様子をWaffen-SS歴史botで紹介ツイートさせて頂いたのですが、どこかに埋もれてしまったので、一年前にまとめたメモを記事にしました。翻訳は自己流なので不明瞭な部分が多いかと思いますがお楽しみいただければ幸いです。
(あと、誤字に関しましては後程チェック 汗)
1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦後、連合国は急速に内陸へと前進した。6月13日(浜辺着陸後の一週間)までには、有名なイギリス第7機甲師団(通称「砂漠のネズミ」)を含む連合軍はカーンの周辺に着いた。そしてその途中、迅速に撤退するドイツの防衛線を遮断するように進軍していた。 そして、6月13日の朝までには装甲教導師団(Panzer Lehr Division)を完全に包囲できる可能性が浮上した。
連合国の計画の中核を成すのは、カーンの大通りと213高地(別名:ポイント213)に位置し、優位に立つことであった。すぐ近くの経路にはヴィレル・ボカージュの小さな町があった。 連合国はその地域にいるLSSAHのSS第101重戦車大隊の存在を全く知らなかった。そして、その間にミヒャエル・ヴィットマンと彼のティーガーIが待ち構えていた。
英部隊指揮官クランレー子爵ウィリアム・アーサー・オンズロー中佐(後の6代目オンズロー伯)はこの地域の適切な偵察を遂行する時間を要求したが、この命令は何が何でも前進するために出されたものとして無視された。断行するというこの決定には、ひどい結果があるということであった。
1944年6月13日朝、LSSAH指揮官等は作戦行動や計画を師団長ゼップ・ディートリッヒSS大将と相談した。ゼップの勘では、連合国は装甲教導師団の裏をかく目的で猛攻撃を開始しようとしていた、というものであった。確保すべき目標はヴィレル・ボカージュと213高地であると結論付けられた。それは町の主要な交差点北部近郊に位置していた。つまり、これは基本的に戦術的な覇権のための単純な戦いであった訳だが、誰も後に続く出来事を予測することができなかった。
私心のないヴィットマンは周囲の地域を偵察するためにティーガーを外へ出すよう提案し、彼の大隊指揮官はすぐに計画に同意した。ヴィットマンの任務はただヴィレル・ボカージュ周辺で敵の行動を監視するだけであり、この地域の重要な足場を守るために必須であるとしてディートリッヒに召喚された。
ヴィットマンは午前6時頃ヴィレル・ボカージュへ出発し、樹木が茂った地域のそばを用心深く動いた。213高地から約150メートルの指揮所にいる間、ヴィットマンはいくつかのなじみの薄い車両の存在を知らせる軍曹に会った。
ヴィットマンは道路を走り、ヴィレル・ボカージュから213高地へ向かっている英国と米国の車両の、とめどなく続く車両集団らしきものを見つけた。これらの車両が非常に訓練されたイギリスの師団、第4ロンドン義勇騎兵連隊(CLY 一級射手)第7機甲師団第22装甲部隊の一員、有名な「砂漠のネズミ」の要員であることが分かった。
クロムウェルとM4A4シャーマン・ファイアフライ戦車を備え、第4ロンドン義勇騎兵連隊は村の東部に、第4ロンドン義勇騎兵連隊B中隊はヴィレルで西部に配置され、コーモン(Caumont)近隣の村に通じる交差点を通り抜けた。
この魅惑的なチャンスはヴィットマンにちょっとしたジレンマを与えた。この状況下で逃げるのは自分で許せないと感じたが、本部との無線連絡は即座に遮られた。ドイツ軍の隣接する地域が周りになく、英国の縦列のある道にはカーンへの障害物がないという点にヴィットマンは注目した。
ヴィットマンの部隊には自由に使える6輌のティーガーがあった。(211、221、222、223、233、234)
【 部隊編成は以下のとおり 】
第I小隊
Jürgen Wessel SS中尉の211●
Balthasar Woll SS伍長の212
Hans Höflinger SS上級曹長の213
Karl-Heinz Warmbrunn SS伍長の214
第Ⅱ小隊
Georg Hantusch SS少尉の221●
Kurt Sowa SS伍長の222●
Jürgen Brandt SS曹長の223●
Ewald Mölly SS伍長の224
第Ⅲ小隊
Heinz Belbe SS連隊付士官候補生の231
Kurt Kleber SS伍長の232
Georg Lötsch SS曹長の233
Herbert Stief SS伍長の234●
これらの6輌のうち、233には無限軌道損害の上、Wessel SS中尉は命令を受けるために前線へ出かけており不在であった。進取の戦車エース自身が行動を起こすことに決めたのはこの瞬間であった。彼は(瞬間的な考えを必要とした)決定が不屈の人であることを想起した。
「...決定はとっても難しいものでした。私はいまだかつて、通り過ぎる戦車のようなあれほどの敵の兵力に感銘を受けたことがありませんでしたから。しかし、私はそれを絶対にしなければならなかったと分かっていたので、敵の前に進み出ることに決めました」
安全な指揮所に歩兵軍曹を残し、ヴィットマンは一番近い車両、Stief SS伍長のティーガー234に向かって全力疾走した。短い昼寝をしていた車両の指揮官は小隊に説明するため急送した。運転手はエンジンを上げた。だが、約25ヤードほど進んだヴィットマンはよろしくない何かを感じ取った。Walter Lau SS兵長(Stief SS伍長の砲手)は次の致命的な数分が展開されるにつれて何を逃がし得るかを理解していなかった。
一瞬のためらいもなくヴィットマンが飛び出し、次の使用可能なティーガー(この時間に一列の縦列から脱する手段を作るKurt Sowa SS伍長の222)に向かって全速力で走った。
その朝召集されたヴィットマンの車両数は、熱心な議論の対象です。
大隊編成時点でSowaが割り当てられた車両はNr. 222。そして、ヴィットマンがヴィレル・ボカージュに向かう前、6月13日の朝に登用されたものとして大多数の解説者から引用されたのはこの車両です。 しかし、ヴィットマンがヴィレル・ボカージュでとった手段がSS-Ostufであったことを示唆する一連の議論を、歴史家ダニエル・テイラーは提示しました。
「Heinz BelbeはティーガーNr. 231です。また、それはP・AgteとJ・Fortyによってリストアップされた6輌の役に立つティーガーの一つではありませんでした。 いくつかの可能性のある理由がこれにはあり、最大限は停止した(仮定?)Sowaの車両というのは実のところNr. 222でした。 ティーガーに機械の不具合の傾向があったことはかなり有名で、その結果、指揮官は『戦車が飛ぶ』と言われることに慣れていました。
この作戦時までに、Sowaの割り当てられた車両がメンテナンスを経ていたかもしれないということ、そして、ヴィレル・ボカージュへの攻撃の日に彼がNr. 231と指定された車両でないものを管理していたかもしれないということがありえました。
このように、Sowaのティーガー(主題について書いた誰でも、ヴィットマンが6月13日朝に召集したことについては同意します)は、Nr. 222の代わりにNr. 231であったかもしれません』
※SS-Ostufって何??に関する参考メモ。(いつものAHFです)時間がある時に他も当ってみようっと。
ヴィットマンは「新たな」運転手Walter Müller SS伍長に総攻撃のために速度を上げるよう命じた。長年の僚友であるBalthasar Wollを砲手に呼び、またGünter Boldt、Günther Jonas(無線通信手)を召集した。後に続く全てのティーガーへの命は下された。以前、ヴィットマンによって召集されたSowaは道路上の守備位置に転じ、Stiefの234を担当した。他の準備中の車両はHantuschの221とBrandtの233であった。時刻は午前8時35分であった。
その日の後刻ヴィレル・ボカージュからの帰還に続き、ヴィットマンはその行動を隊列に沿った単純なドライブと記述したと言う。しかし、実際はそのドイツのプロパガンダが書いたレポートほど、決して単純なものではなかった。
一見終わることのない英国の縦列をまっすぐに見て、ヴィットマンは静止した敵の車両に向かってティーガーIを真っ正面に向け、激しい集中砲火に勇敢に立ち向かった。他の車輛も彼に続いた。その攻撃は自殺的なものであったが、ヴィットマンはより速く、敵よりも狡猾であった。敵のその厚い装甲板に当たって跳ね返りながら、ティーガーは激しく回転した。
ヴィットマンが遭遇した最初の敵の車輛はクロムウェルとシャーマンであった。彼らを使用不能にし、ヴィットマンは残りの車輛のための出口をふさいだ。一方、ヴィットマン中隊の2輌のティーガーは213高地まで進んだ。その時、ヴィットマンのティーガーが特攻をかけたので、道の側でカップ1杯のお茶とタバコを静かに楽しんでいた敵は我が身を捕らえられたと驚きを隠せなかった。英軍の兵士は凄まじいティーガーにパニックを起こし、配置に戻る時間は殆どなかった。
英軍の兵士たちは錯乱し、エンジンの稼働していた数台の車両を放棄し、身の安全を確保するために散り散りに走った。Boldtはこの途方もない速度を保たなければならなかった。WollはMG34をつかみ、ハーフトラックの隣にあった高速偵察車に弾丸の雨を浴びせた。
ヴィレル・ボカージュに入ると同時に、ヴィットマンは連隊本部に属している4輌に遭遇した。おとり命令を下されていた2輌の車両を含む3輌の戦車は、ヴィットマンに直ぐに撃破された。(ヴィットマンはもちろん、これらの車両が武装していないとは知らなかった)それから、Wollはうろたえる歩兵連隊と諜報部に属する高速偵察車に、88mmの装甲板を撃ち破った。ヴィットマン自身はキューポラでMG34をつかみ、彼の砲手と一緒に残りのハーフトラックを破壊した。(それは軍医が所有しているものだった)
そこへクロムウェル戦車(ディアス大尉)による攻撃を受け、ヴィットマンは市街から抜け出そうと後退するが、建物に潜んでいた英軍の6ポンド対戦車砲からの攻撃を側面に受け、行動不能となったティーガーから乗員たちと脱出した。
※以上、英サイトからの自己流翻訳でした(笑)そのリンクの情報をどこへやってしまったのか...探しています。
それから、ヴィットマン等は7km離れた装甲教導師団司令部まで歩きます。支援要請を受けた第130戦車教導連隊第2大隊はIV号戦車15輌でヴィレル・ボカージュへ向かい、装甲教導師団司令官バイエルライン(Fritz Bayerlein)と合流。道路封鎖を命じられますが……そこへ英軍が!
大ピンチかと思ったその時、援軍の第2戦車師団の歩兵部隊が到着。ヴィットマンはシュヴィムワーゲンで高地213の第1中隊を訪れ、メビウスにヴィレル・ボカージュへの突入を依頼。第1中隊はレクス大尉(装甲教導師団)のIV号戦車14輌と共に市街へ突入。英軍は激しい抵抗の後、撤退を始めました。
ヴィットマンが戦死したのはその年の8月8日のことでした。
Jun 11, 2013
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