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Jun 11, 2013

ヴィレル・ボカージュの戦いのようす。 About The Battle of Villers-Bocage in Japanese words

1944年6月13日はフランス・ノルマンディー、ヴィレル・ボカージュの戦いが行われた日。この日の9:00はティーガー攻撃開始の時刻です。

 この戦いの様子をWaffen-SS歴史botで紹介ツイートさせて頂いたのですが、どこかに埋もれてしまったので、一年前にまとめたメモを記事にしました。翻訳は自己流なので不明瞭な部分が多いかと思いますがお楽しみいただければ幸いです。
(あと、誤字に関しましては後程チェック 汗)

 1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦後、連合国は急速に内陸へと前進した。6月13日(浜辺着陸後の一週間)までには、有名なイギリス第7機甲師団(通称「砂漠のネズミ」)を含む連合軍はカーンの周辺に着いた。そしてその途中、迅速に撤退するドイツの防衛線を遮断するように進軍していた。 そして、6月13日の朝までには装甲教導師団(Panzer Lehr Division)を完全に包囲できる可能性が浮上した。

 連合国の計画の中核を成すのは、カーンの大通りと213高地(別名:ポイント213)に位置し、優位に立つことであった。すぐ近くの経路にはヴィレル・ボカージュの小さな町があった。 連合国はその地域にいるLSSAHのSS第101重戦車大隊の存在を全く知らなかった。そして、その間にミヒャエル・ヴィットマンと彼のティーガーIが待ち構えていた。

 英部隊指揮官クランレー子爵ウィリアム・アーサー・オンズロー中佐(後の6代目オンズロー伯)はこの地域の適切な偵察を遂行する時間を要求したが、この命令は何が何でも前進するために出されたものとして無視された。断行するというこの決定には、ひどい結果があるということであった。

 1944年6月13日朝、LSSAH指揮官等は作戦行動や計画を師団長ゼップ・ディートリッヒSS大将と相談した。ゼップの勘では、連合国は装甲教導師団の裏をかく目的で猛攻撃を開始しようとしていた、というものであった。確保すべき目標はヴィレル・ボカージュと213高地であると結論付けられた。それは町の主要な交差点北部近郊に位置していた。つまり、これは基本的に戦術的な覇権のための単純な戦いであった訳だが、誰も後に続く出来事を予測することができなかった。

 私心のないヴィットマンは周囲の地域を偵察するためにティーガーを外へ出すよう提案し、彼の大隊指揮官はすぐに計画に同意した。ヴィットマンの任務はただヴィレル・ボカージュ周辺で敵の行動を監視するだけであり、この地域の重要な足場を守るために必須であるとしてディートリッヒに召喚された。

 ヴィットマンは午前6時頃ヴィレル・ボカージュへ出発し、樹木が茂った地域のそばを用心深く動いた。213高地から約150メートルの指揮所にいる間、ヴィットマンはいくつかのなじみの薄い車両の存在を知らせる軍曹に会った。
 ヴィットマンは道路を走り、ヴィレル・ボカージュから213高地へ向かっている英国と米国の車両の、とめどなく続く車両集団らしきものを見つけた。これらの車両が非常に訓練されたイギリスの師団、第4ロンドン義勇騎兵連隊(CLY 一級射手)第7機甲師団第22装甲部隊の一員、有名な「砂漠のネズミ」の要員であることが分かった。

 クロムウェルとM4A4シャーマン・ファイアフライ戦車を備え、第4ロンドン義勇騎兵連隊は村の東部に、第4ロンドン義勇騎兵連隊B中隊はヴィレルで西部に配置され、コーモン(Caumont)近隣の村に通じる交差点を通り抜けた。

 この魅惑的なチャンスはヴィットマンにちょっとしたジレンマを与えた。この状況下で逃げるのは自分で許せないと感じたが、本部との無線連絡は即座に遮られた。ドイツ軍の隣接する地域が周りになく、英国の縦列のある道にはカーンへの障害物がないという点にヴィットマンは注目した。

ヴィットマンの部隊には自由に使える6輌のティーガーがあった。(211、221、222、223、233、234)


【 部隊編成は以下のとおり 】

第I小隊
Jürgen Wessel SS中尉の211●
Balthasar Woll SS伍長の212
Hans Höflinger SS上級曹長の213
Karl-Heinz Warmbrunn SS伍長の214

第Ⅱ小隊
Georg Hantusch SS少尉の221●
Kurt Sowa SS伍長の222●
Jürgen Brandt SS曹長の223●
Ewald Mölly SS伍長の224

第Ⅲ小隊
Heinz Belbe SS連隊付士官候補生の231
Kurt Kleber SS伍長の232
Georg Lötsch SS曹長の233
Herbert Stief SS伍長の234●


 これらの6輌のうち、233には無限軌道損害の上、Wessel SS中尉は命令を受けるために前線へ出かけており不在であった。進取の戦車エース自身が行動を起こすことに決めたのはこの瞬間であった。彼は(瞬間的な考えを必要とした)決定が不屈の人であることを想起した。

「...決定はとっても難しいものでした。私はいまだかつて、通り過ぎる戦車のようなあれほどの敵の兵力に感銘を受けたことがありませんでしたから。しかし、私はそれを絶対にしなければならなかったと分かっていたので、敵の前に進み出ることに決めました」

 安全な指揮所に歩兵軍曹を残し、ヴィットマンは一番近い車両、Stief SS伍長のティーガー234に向かって全力疾走した。短い昼寝をしていた車両の指揮官は小隊に説明するため急送した。運転手はエンジンを上げた。だが、約25ヤードほど進んだヴィットマンはよろしくない何かを感じ取った。Walter Lau SS兵長(Stief SS伍長の砲手)は次の致命的な数分が展開されるにつれて何を逃がし得るかを理解していなかった。

 一瞬のためらいもなくヴィットマンが飛び出し、次の使用可能なティーガー(この時間に一列の縦列から脱する手段を作るKurt Sowa SS伍長の222)に向かって全速力で走った。

 その朝召集されたヴィットマンの車両数は、熱心な議論の対象です。
 大隊編成時点でSowaが割り当てられた車両はNr. 222。そして、ヴィットマンがヴィレル・ボカージュに向かう前、6月13日の朝に登用されたものとして大多数の解説者から引用されたのはこの車両です。 しかし、ヴィットマンがヴィレル・ボカージュでとった手段がSS-Ostufであったことを示唆する一連の議論を、歴史家ダニエル・テイラーは提示しました。

「Heinz BelbeはティーガーNr. 231です。また、それはP・AgteとJ・Fortyによってリストアップされた6輌の役に立つティーガーの一つではありませんでした。 いくつかの可能性のある理由がこれにはあり、最大限は停止した(仮定?)Sowaの車両というのは実のところNr. 222でした。 ティーガーに機械の不具合の傾向があったことはかなり有名で、その結果、指揮官は『戦車が飛ぶ』と言われることに慣れていました。

この作戦時までに、Sowaの割り当てられた車両がメンテナンスを経ていたかもしれないということ、そして、ヴィレル・ボカージュへの攻撃の日に彼がNr. 231と指定された車両でないものを管理していたかもしれないということがありえました。

このように、Sowaのティーガー(主題について書いた誰でも、ヴィットマンが6月13日朝に召集したことについては同意します)は、Nr. 222の代わりにNr. 231であったかもしれません』
SS-Ostufって何??に関する参考メモ。(いつものAHFです)時間がある時に他も当ってみようっと。

 ヴィットマンは「新たな」運転手Walter Müller SS伍長に総攻撃のために速度を上げるよう命じた。長年の僚友であるBalthasar Wollを砲手に呼び、またGünter Boldt、Günther Jonas(無線通信手)を召集した。後に続く全てのティーガーへの命は下された。以前、ヴィットマンによって召集されたSowaは道路上の守備位置に転じ、Stiefの234を担当した。他の準備中の車両はHantuschの221とBrandtの233であった。時刻は午前8時35分であった。

 その日の後刻ヴィレル・ボカージュからの帰還に続き、ヴィットマンはその行動を隊列に沿った単純なドライブと記述したと言う。しかし、実際はそのドイツのプロパガンダが書いたレポートほど、決して単純なものではなかった。

 一見終わることのない英国の縦列をまっすぐに見て、ヴィットマンは静止した敵の車両に向かってティーガーIを真っ正面に向け、激しい集中砲火に勇敢に立ち向かった。他の車輛も彼に続いた。その攻撃は自殺的なものであったが、ヴィットマンはより速く、敵よりも狡猾であった。敵のその厚い装甲板に当たって跳ね返りながら、ティーガーは激しく回転した。

 ヴィットマンが遭遇した最初の敵の車輛はクロムウェルとシャーマンであった。彼らを使用不能にし、ヴィットマンは残りの車輛のための出口をふさいだ。一方、ヴィットマン中隊の2輌のティーガーは213高地まで進んだ。その時、ヴィットマンのティーガーが特攻をかけたので、道の側でカップ1杯のお茶とタバコを静かに楽しんでいた敵は我が身を捕らえられたと驚きを隠せなかった。英軍の兵士は凄まじいティーガーにパニックを起こし、配置に戻る時間は殆どなかった。

 英軍の兵士たちは錯乱し、エンジンの稼働していた数台の車両を放棄し、身の安全を確保するために散り散りに走った。Boldtはこの途方もない速度を保たなければならなかった。WollはMG34をつかみ、ハーフトラックの隣にあった高速偵察車に弾丸の雨を浴びせた。

 ヴィレル・ボカージュに入ると同時に、ヴィットマンは連隊本部に属している4輌に遭遇した。おとり命令を下されていた2輌の車両を含む3輌の戦車は、ヴィットマンに直ぐに撃破された。(ヴィットマンはもちろん、これらの車両が武装していないとは知らなかった)それから、Wollはうろたえる歩兵連隊と諜報部に属する高速偵察車に、88mmの装甲板を撃ち破った。ヴィットマン自身はキューポラでMG34をつかみ、彼の砲手と一緒に残りのハーフトラックを破壊した。(それは軍医が所有しているものだった)

 そこへクロムウェル戦車(ディアス大尉)による攻撃を受け、ヴィットマンは市街から抜け出そうと後退するが、建物に潜んでいた英軍の6ポンド対戦車砲からの攻撃を側面に受け、行動不能となったティーガーから乗員たちと脱出した。
以上、英サイトからの自己流翻訳でした(笑)そのリンクの情報をどこへやってしまったのか...探しています。

 それから、ヴィットマン等は7km離れた装甲教導師団司令部まで歩きます。支援要請を受けた第130戦車教導連隊第2大隊はIV号戦車15輌でヴィレル・ボカージュへ向かい、装甲教導師団司令官バイエルライン(Fritz Bayerlein)と合流。道路封鎖を命じられますが……そこへ英軍が!

 大ピンチかと思ったその時、援軍の第2戦車師団の歩兵部隊が到着。ヴィットマンはシュヴィムワーゲンで高地213の第1中隊を訪れ、メビウスにヴィレル・ボカージュへの突入を依頼。第1中隊はレクス大尉(装甲教導師団)のIV号戦車14輌と共に市街へ突入。英軍は激しい抵抗の後、撤退を始めました。

ヴィットマンが戦死したのはその年の8月8日のことでした。

Jun 14, 2012

ヴィットマンの戦死をめぐるお話

今年は1944年6月13日のヴィレル・ボカージュから68年目にあたります。70年目(2014)には恐らく、記念式典が開かれるのでしょうね。(連合国のことですから 汗)

ヴィットマンを戦死させたのは英軍の元砲手ジョー・エキンズ氏とついこの間認定されましたね。「半世紀以上にわたり続いてきた謎が終結 - 地味な英国のおじいちゃんは恐ろしいドイツの戦車エース“黒男爵(Black Baron)”を殺したと信じています」という、2010年5月14日(金)の記事からご紹介します。

Jun 12, 2012

Jun 11, 2012

Jan 18, 2012

Waffen-SS 歴史bot (案内役:マックス・ヴュンシェ)

皆さま、こんにちは。

戦時ドイツの歴史を調べ始めて数年たち、我が家に資料が増えてまいりました。国防軍(陸空海)、それから武装SS、RAD、警察、戦前オーストリア、反ナチ派、戦時のユダヤ人の方の体験談。
その中で、どうしても登場することになってしまう武装SS周辺の情報を和訳し、あるいは良書の中からご紹介させて頂くためのbotを作成しました。

Jan 1, 2012

Nov 20, 2011

印象的な写真の男(1944年12月18日の朝に撮影)







この1944年のアルデンヌの彼。ずっと気になっていたのですがAxis History Forumによると、LIFEにも取り上げられたMG42を持つ彼の名前はヴァルター・アンブルーシュ(Walter Armbrusch)さんというらしいです。
LSSAHの連隊指揮官マックス・ハンセン(Max Hansen)のハンセン戦闘団(Kampfgruppe Hansen) 第1SS装甲擲弾兵連隊 第2大隊の擲弾兵(SS二等兵 SS-Schütze)でした。
指揮官のハンセンさんは戦後も生き残り、1990年に81歳でなくなりました。ヴァルターさんはどうだったんでしょうね。


Source: Battle of the Bulge: Then and Now by Jean-Paul Pallud
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Apr 20, 2011

マックス・ヴュンシェ Max Wünsche

Max Wünsche with Paul Richter, Magda Schneider: Actor Paul Richter, German officer Max Wünsche and actor Magda Schneider who is Romy Schneider's mother.(マグダさんはヴィスコンティ映画等のシシィ役で有名なロミー・シュナイダーのお母さんですよ!)

今日お誕生日のマックス・ヴュンシェ(右)は後にヒットラー・ユーゲント師団の装甲連隊の指揮官となる、ライプシュタンダーテ・アドルフ・ヒットラー(LAH後に第1SS装甲師団 LSSAH)の士官、柏葉付騎士鉄十字章受賞者です。ちなみに、この写真はヒットラーの護衛に就いていた時のものです。軍服ではないのが珍しいお写真です。

一般的に親衛隊のイメージって好ましくないし、迫害という行為に関しては私もアンチなので、マックスがどんな人だったのか調べてから掲載しようと用心深く考えました。

「ヴュンシェは戦後も総統を擁護して公然と大戦中のユダヤ人の殺害が体系的であったことに疑問を呈した」とサミュエル・W・ミッチャムJr(Samuel W Mitcham Jr.)は書いておりますが、それは多分、彼がヒットラーの良い部分だけしか知らなかった、加えてHJ教育をうけていた影響によるものと思われます。(2012.1.26補足)

マックスはヒットラーの護衛に就いており、そういった発言はあったようですが、それは人種差別とは結びついていないようですし、「戦いに身を投じた武装親衛隊の将校」といった印象をうけましたので掲載することにしました。
書籍の他、Wiki英独やAxis History Forumも読ませて頂きました。ありがとうございます。ミッチャムJrさん本以外でいくつか拝読させて頂いた他の記事・書籍もありますが失念しておりますので、思い出した時に加筆させて頂きます。

1914年4月20日、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キットリッツ生まれ。バウツェンの学校を経て商業学校に通いました。
農業に興味を持っていたマックスは商業学校を卒業すると、1928年に農業組合に参加、不動産会社のマネージャーとして短期間働きました。 (フランス語のサイトには公認会計士事務所の責​​任者だったとも。。。大体そんな感じのお仕事です 笑)

中央のオッサンではなく右です。

1932年11月にはヒットラー・ユーゲントに参加、1933年7月にユーターボークで下士官になる為の訓練に参加した後、親衛隊に入隊しました。
士官候補生に推薦されると、バイエルン州のバート・テルツにある親衛隊士官学校(SS-Junkerschule)へ入学、1936年に卒業して親衛隊少尉へと昇進したマックスは、4月にLAHの第9中隊の小隊長に任官。1938年10月にヒットラーの警備分遣隊(SS-Begleitkommando des Führers)の当直将校になりました。。(2012.1.26補足)

ちなみにマックスは、1939年8月23日にドイツとソ連との間に結ばれた独ソ不可侵条約のドイツ代表団のメンバーでした。


1940年1月、マックスはオランダ戦とフランス戦のために、パンツァーマイヤー(Panzermeyer)ことクルト・マイヤー指揮下の第15オートバイ中隊の小隊長としてLAHに戻ります。 その後、オランダで戦い、1940年5月15日に負傷しました。

フランス戦の間、今度はマイヤーが負傷したのでマックスはオートバイ中隊(ライプシュタンダーテSSアドルフ・ヒットラー第15中隊)を指揮しました。(2012.1.26補足)

マックスは6月に総統本部に任務のために戻りましたが、1940年にこんなエピソードがあって、マックスはLAHの部隊に戻ることになりました。
 
「イタリア皇太子のオーバーザルツベルク訪問の時のマックスや数名の総統護衛隊の親衛隊将校の対応が良くなかったぞ」とヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルクがヒットラーの副官長で突撃隊(SA)の将軍だったヴィルヘルム・ブリュックナーに抗議しました。
ヒットラーは執事の意見を聞いて「ヴュンシェをLAHに戻そう」と言い出します。一方、ブリュックナーはヴュンシェを擁護して「カンネンベルクが要らんことを言った」と返したもんだから、ヒットラーは怒って翌年の4月にブリュックナーから副官長の職を取り上げました。

ちなみに、ヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルク(Arthur Kannenberg)はプフールのビール・ワイン醸造所の最高経営責任者として、ゲッベルス、ゲーリング、ヒットラー等よく知られたナチス党幹部と結びつき、最初はミュンヘンの党本部「褐色の家」のカジノの管理者として雇われていた人物でした。(2012.1.26補足)


妄想)対応がなってなかったって、どんな態度だったんでしょうね? マックスは写真で見る限り、意外に表情が豊かでお茶目なので面白いことでもしちゃったのかしら??

Funny Meyer, a photo by kumicov on Flickr. いらんことをするマイヤー(左)

カンネンベルクのチクリ事件の後の1940年12月、バルカン諸国との戦いの間に、マックスはゼップ・ディートリッヒの副官としてLSSAHに戻りました。そして、マリタ作戦(ギリシャの戦い)や、1941年6月22日から始まったバルバロッサ作戦に参加しました。
旅団に拡大したLSSAHは軍集団の南側、フォン・クライストのクライスト装甲集団 (Panzergruppe 1) に配置。マックスはFi-156(シュトルヒ)でバルバロッサ作戦の偵察飛行を行います。7月31日の1回の飛行では包囲された赤軍の師団に罠をかけて(7月16日に開始されたウマーニ包囲戦にて孤立地帯を閉鎖した)ノボ・アルハンゲリスク占領に貢献しました。


この時、黒男爵ことミヒャエル・ヴィットマンはおよそ16両の戦車と対決して6両の戦車を撃破しましたが、度重なる戦闘で負傷し、本国に送還されることになります。上官だったマックスに士官候補生として推薦されたヴィットマンは、ドイツへ戻るとマックスの母校であるバート・テルツ親衛隊士官学校にて士官になる訓練をしました。

ちなみに、ドイツでパンツァー(装甲あるいは戦車)の異名を付けられた人がマイヤーを含めて3人いました。
・パンツァーシュルツ(Adelbert Schulz
・パンツァーグラーフ(Hyazinth Graf Strachwitz von Groß-Zauche und Camminetz
・パンツァーマイヤー(Kurt Meyer)です。
グラーフとはドイツ語で伯爵を意味しますので日本語で言うと「戦車伯爵」ですね。。。カッコよすぎる。


ロシア侵攻の間、マックスは二度も師団の指揮官代理に選ばれました。1942年2月にはドイツの防衛線を突破しようとする赤軍を食い止めるためにLSSAHの突撃砲大隊の指揮官に任命され、いくつかのソ連軍部隊を撃退するのに尽力しました。


3月にはムイス橋頭堡(Muisにはネズミという意味もあるのですがネズミで良いのかな?)の予備隊として再び赤軍の進軍を防ぎました。(2012.1.26補足)


1942年6月1日マックスは幕僚学校(幹部職に就くための訓練を行う学校)で学ぶためにベルリンへ帰国し、3ヶ月間、参謀幕僚訓練コースを受講します。終了後は親衛隊少佐に昇進。
1942年9月にLSSAHのいるロシアに戻り、突撃砲大隊の指揮官を勤めました。そして、1942年10月には新しく創設された第1SS装甲連隊第Ⅰ大隊の指揮官に任命されました。(2012.1.26補足)

この辺のマックスが何とフィギュアになってる(笑)

新しい大隊の最初の作戦地域はハリコフにありました。氷点下の極寒!ブリザードとの戦い!赤軍の進軍を食い止め、ハルキウ(現ウクライナ)を占拠するとともに、幾つかの戦いで赤軍に大打撃を与え、2月9日に作戦を終了しました。
2月10日、マックスの年上の指揮官であったマイヤー率いる第1SS偵察大隊を包囲網から救い出そうと大隊は攻撃を仕掛け、2月13日に包囲網を突破。マイヤーの部隊を壊滅から救い出しました。


その後、マックスとマイヤーの部隊は戦闘団(Kampfgruppe)を結成し、ハリコフが赤軍に放棄された2月15日までに赤軍の第VI近衛騎兵部隊(VI Guards Cavalry Corps)を破り、攻撃を続けました。 マックスはこれにより、ドイツ十字章金章を授与されました。

マイヤー「よかった、よかった、先輩は嬉しい」(嘘ですけど、そんな感じ)

2月25日、マックスの戦闘団は師団の南側面に接近している敵の部隊を発見。マックスは率先して赤軍を包囲し、52門の重砲(heavy gun)を破壊。赤軍に900人以上の戦死者を出すほどの激しい戦いを繰り広げ、この戦果によって1943年2月28日に騎士鉄十字章を授与されました。


その年の6月、親衛隊少佐となったマックスはフランスで設立された新しい部隊、第12SS装甲連隊(後の第12SS装甲師団ヒットラー・ユーゲント)に移り、指揮を命じられました。マイヤーはこの連隊長を希望していたそうですが、マックスがこの任務にあたることになりました。この師団は主にヒットラー・ユーゲントから引き抜かれた未成年のドイツ人で構成されていました。また、ほとんどが未成年者だったので煙草ではなくチョコレート等の高級なお菓子が支給されました。

1944年カーン(フランス)にて。

1944年6月6日、連合国がいわゆる「Dデイ」と銘打ってノルマンディーに上陸(オーバーロード作戦)。第12SS装甲師団は6月7日、早くも戦闘を経験することになります。

連合軍は哺乳瓶の絵を描いたりして彼らのことを「赤ちゃん師団」とからかいましたが、ノルマンディーのカーンを2ヶ月近く死守しました。連合軍との戦いにおいて、マックスの連隊は7月の初めまでに219両の戦車を破壊。彼に柏葉付騎士鉄十字章をもたらします。

ちなみに6月14日にはフリッツ・ヴィット師団長の戦死によって、マイヤーがこの師団の指揮を引き継ぎました。1944年8月のヴュンシェ戦闘団(HJ師団所属)は以下のように編成され、動いていました。


1944年8月6日
グリムズビーにて連合軍の第271歩兵師団はオルヌ川を越えて橋を開放する。
ヴュンシェ戦闘団は敵の第271歩兵師団の勢力を和らげるため、反撃するよう命じられる。

8月7-8日
ヴュンシェ戦闘団の戦闘序列 Kampfgruppe Wünsche
●第12SS装甲連隊本部
・〃第1大隊本部
・〃第3中隊(パンターを装備)
・〃第8中隊(IV号戦車を装備)
●第26SS装甲擲弾兵連隊「ヒットラー・ユーゲント」(Panzergrenadier Regiment)
・第I大隊(Battalion)
・第III大隊(Battalion)※本部および1個中隊を除く。
●第12SS砲兵連隊
・第III大隊(増援部隊)
SS第101重戦車大隊(Abteilung)※M・ヴィットマン所属。


ヴュンシェ戦闘団の攻撃は撃退される。
第12SSの部隊はブレトヴィル=シュル=レーズ(Bretteville-sur-Laize)南部に移動。
カナダ軍とイギリス軍がトータライズ作戦(Operation Totalize)を開始。

8月8日
ヴュンシェ戦闘団、カーンの南部グリムズビー(Grimbosq)橋頭堡で戦闘。
機動部隊は、24名の戦死者、91名の戦傷者、7名の行方不明者、パンター9両の損失を被る。
戦闘団(KG)は28両の連合国戦車を破壊したと推定。
司令官のクルト・マイヤーはトータライズ作戦開始の進行を感じ取り、最前線を訪問。
マイヤーは師団の対戦車部隊を見るためにサントオー(Cintheaux)に赴き、連合国の攻撃を回避するドイツ兵の再編成を試みる。
後にマイヤーは悪化している防御状況について第5装甲軍のハインリッヒ・エーバーバッハ(General Eberbach)と協議するためにユルヴィル(Urville)へ赴いている。

トータライズ作戦の結果、東から撤退するよう命じられ、8月11日にケスネイウッド  (Quesnay wood) 防衛に参加。

ソース
The 12th SS: The History of the Hitler Youth Panzer Division Volume II (Stackpole Military History)
Axis History Factbook
(2012.4.20補足)



そして8月20日の夜、ファレーズ包囲戦(1944年8月12日-8月21日)では、マックスと彼の副官Isecke(イゼッケ?)親衛隊大尉、フリッツ・フライターク親衛隊少尉、負傷した軍医が包囲されたファレーズポケットからの脱出を試みますが、ふくらはぎを負傷していたマックスと軍医は捕まってしまいました。8月24日にはIseckeが、しばらくしてフライタークが逮捕され、連合軍の捕虜となりました

マックスとマイヤーが捕まった時についてのトピックスがAxis History Forumに上がっていました。
メイヤーズ(H.Meyers)のヒットラーユーゲント師団の本によると、イギリス軍に捕らえられた翌日、マックスたちはモントゴメリー陸軍元帥の前に連れていかれました。
モントゴメリーはマックスに「イギリス人はジュネーブ条約に基づき、すべての兵士を丁重に扱う」と話しましたが、マックスたちが連行される間に、イギリス兵は彼らの勲章や記章を奪いました。

D.アーヴィング(D.Irving)の本によると、ヒットラーは釈放するためにドイツに捕らえられた連合国将校(英軍)とマックスを交換しようとしました。しかし、それはかなえられなかった。

一方、マイヤーは納屋で捕まる前に陸軍(Heer)の格好をして自分が武装親衛隊員であることを隠そうとしましたが、マイヤーの左腕内側に親衛隊員の証である血液型の入れ墨を発見されてばれてしまったらしいです。(既に敵にも知れ渡るほど有名だったから、どのみちバレれしまうのです)

その後、マックスはドイツ高級将校のための特別な捕虜収容所であったスコットランドの「キャンプ165」の捕虜として終戦まで過ごしました。
マックスは後に同じ捕虜収容所に連れてこられたマイヤーに会っています。

戦後1948年、マックスは解放されてドイツに帰国。ヴッペルタールの工業施設のマネージャーになりました。戦前の業務に戻れたのですね~。1980年の定年を迎える頃までには結婚し、家庭を持ち、そして1995年4月17日、81回目の誕生日を迎える2、3日前に息を引き取りました。(お墓の写真/2枚目 Axis history forumから)

ちなみに、こちらには「奥様の名前はインゲボルク(Ingeborg)さん」とあり、実際にマックスと会った方はこんなふうに話していました。
「私はドイツで1976年にマックス・ヴュンシェと彼の魅力的な妻に会う素晴らしい機会を得ました。彼は家に連れて行ってくれて、我々は何時間も話しました。彼には5人の息子(娘0)がいました。彼は非常に成功した実業家で、戦後ドイツでは低姿勢を保ちました。非常に立派な紳士」
(2012.4.20補足)


最後にこの写真を。彼の真顔は特撮に出てきそうな濃い顔をしておりますが(良い意味で)笑うとかわいいんですよ(笑)笑顔がたまりません。


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