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Sep 23, 2012

War Requiems



Hi all.

It's rainy day. the air becomes cool and I feel autumn will come here. How is your town? I'm listening to some classic tunes about WWI and WWII.

Feb 25, 2012

1918年7月18日、アラパエフスク近郊の修道院で

Grand Duchess Elizabeth Signed 

皆様、こんにちは。
先日に作業中にまた脱線してしまいまして、こんな記事を見つけたので気になるところだけご紹介します。ロマノフ家やその周辺のロシア大公の家族などが相次いで処刑されました。残酷な内容で、本当にあったことだけに胸が痛みました。現在、エリザヴェータ・フョードロヴナはエルサレムに安置されています。


ウラジーミル・パーリィ公はナタリー・パレの兄弟で、詩人でもありました。1916年、1918年にそれぞれ詩集を出版した他、いくつかの戯曲やエッセイを書き、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ作「ユダヤの王」のフランス語版を翻訳したそうです。
※例によってアバウト翻訳です。


アラパエフスク近郊の修道院でロマノヴァは即死した
※↑のリンク、エリザヴェータ・フョードロヴナ、イオアン・コンスタンチノヴィチの亡骸写真を含むのでご注意を。

主要都市からの距離/
モスクワ…160キロ、アラパエフスク…12キロ、ニジニ・タギル川…136キロ、
チェリャビンスク…361キロ、ペルミ…526キロ、チュメニ…324キロ、ウファ…678マイル

1918年7月18日の事件は心の痛む悲劇であった。1918年夏、内戦の真っ只中に、ボルシェヴィキはロマノフとその側近の王室の人々全てを処刑することに決めた。エカチェリンブルグの中心部イパチェフの家(Ipatiev)の地下で、7月16~17日の夜に 王族と使用人は残酷に銃殺されたが、子供にも容赦はなかった。

そして次の夜、冷酷なボルシェヴィキは王族の血を引く人々をアラパエフスクの学校の建物の中に拘束し続けた。
正にに刑事事件の状況! 学校の屋外、夜の3時に銃声と手榴弾の爆発が響いた。招集命令は宣言された。ボルシェビキは彼らが白人の指導者によって誘拐されたと述べた。申し立てによると、急襲の結果として2名の赤軍兵が負傷したため、攻撃者のいずれかが殺されたという。

翌日、アラパエフスクにはチラシが掛けられ、著名人の拉致に関して新聞報道された。だが結局のところ、それはアラパエフスクに接近して混乱させるためにボルシェビキが意図した、巧みな脚色にすぎなかった。

アラパエフスクで囚人(王族)が寝入ると、彼らがゲームをする前に囚人をすぐに起こした。アラパエフスク 北部ベルドロフスク付近の工場へ移動するとして、(王族は)手を縛られて目には包帯を巻かれて建物から出された。

(工場を探していてこういうリンクを見つけました。「1918年7月18日計画のロマノフ家の大公が殉教した場所に建てられた修道院」とあります)

囚人は荷馬車に乗せられ、アラパエフスク北部に連れて行かれた。夜にもかかわらず、行列を見たという目撃者がいた。この事実により、彼らが沈黙していたことが分かった。誰も音を発しなかった。
王子は恐らく「彼らは何の目的で我々を連れて行くのか?」と推測したに違いない。だが、前皇帝と彼の家族がもはやこの世にいないと、想像することすらできなかったであろう。
(この訳文はちょっと自信がありませんが、次のセンテンスに合わせると大丈夫かな?)

馬は廃坑に近い暗い森の中で停止した。8名の囚人は地面にあいた大穴の前に連れて行かれた。 処刑人は掘られた落とし穴に彼らを突き落とし、手榴弾を投げた。この時、全てが殺された訳ではなかった。事件から数日間、地元住民は祈りの声を聞いた。それでも誰も助けようとはしなかった!

エリザヴェータ・フョードロヴナ・ロマノヴァ

セルゲイ・ミハイロヴィチ

フョードル・セメノヴィッチ・レメス(セルゲイ・ミハイロヴィチの秘書)
※画像はありません。

ウラジーミル・パーリィ(ナタリー・パレの父、イオアンとイーゴリの又従弟)

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ(ロシア公)
※上述の大公とは別人。

イオアン・コンスタンチノヴィチ(コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの長男)

イーゴリ・コンスタンチノヴィチ(コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの5男)

尼僧ヴァルヴァラ・ヤコヴレヴァ(エリザヴェータ・フョードロヴナの助修女)

参照ソコロフの研究(ベルリン、1925)で引用されたフォトドキュメント
(※リンク先に遺体の古写真もあります。ご注意下さい)

ロマノフ家最後の一族を殺害した鉱山は鉄鉱山の一部であった。また、アラパエフスクからさらに下ったスベルドロフスク北部へ伸びる道の交差点から、セリム鉱山はおよそ100メートル以上低いところにあった。

鉱山は部分的に水で満たされていた。鉱山の深さに関するデータは、ソースによってかなり違っている。(20~70メートルといった具合に)
2ヶ月以上経った1918年9月28日、アラパエフスクで白人の遺体が発見され、すぐに大公の運命に関する調査は開始された。4日間、立て杭を打ち、死者を地面から掘り集めた。

調査では人々の大半は落下した後、負傷してまもなく死亡したことが分かった。エリザヴェータとイオアンは地表から15メートル下に落ちたことが判明。これが彼らの命を救った。エリザヴェータ・フョードロヴナは一番長く持ちこたえ、飢餓で死亡した。

遺体が座位で発見されたためパーリィはすぐに死んではいない。セルゲイ・ミハイロヴィチの頭部には1発の銃弾の痕。抵抗し、撃たれ、投げ入れられた。調査員によればヴァルヴァラとイオアン・コンスタンチノヴィチは右手の指が十字に積み重なり、最後に祈っていたことが分かった。

目撃者によるとエリザヴェータ・フョードロヴナの顔は笑顔だったと言われている。




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Feb 18, 2012

リディア・リトヴァクさん戦後生存説 ツォッタン博士の記事


対戦中のソ連の女性エースパイロット、リディア・リトヴァクさんの情報を見ていて、ポーランドのカシミラ・ヤン・ツォッタン博士Kazimiera Jean Cottam)によるとても興味深い記事を見つけました。へなちょこ翻訳ですがご紹介したいと思います。