対戦中のソ連の女性エースパイロット、リディア・リトヴァクさんの情報を見ていて、ポーランドのカシミラ・ヤン・ツォッタン博士(Kazimiera Jean Cottam)によるとても興味深い記事を見つけました。へなちょこ翻訳ですがご紹介したいと思います。
ヨーロッパ戦勝記念日55周年の頃、ロシアのテレビはスイスの放送を呼び物にしました。戦時中に2度負傷し、戦後に海外へ移住した3人の子供たちの母は、大戦中の旧ソ連の女性パイロットだったと通信員は紹介しました。女性の旧姓は伝えられませんでしたが、第46夜間爆撃防衛連隊「タマニ」のベテラン、ニーナ・ラスポポワ(Nina Raspopova)はこれはおそらく1943年8月1日に亡くなったリディア・リトヴァクでなければならないと仮定しました。
この出来事は元上級整備士で現歴史家、そしてリトヴァクが最初に配属された第586戦闘機連隊の公文書保管人エカテリーナ・ポルニナ(Yekaterina Polunina)による最近の著書で報告されました。
アメリカでは無意味なあだ名「スターリングラードの白いバラ」(実際には彼女のあだ名は「ユリ」でした)をリトヴァクのものであると考えた情報に乏しい男性著者は煽情的な記事を書きました。また、彼女が第73護衛戦闘航空連隊「スターリングラード-ウィーン」の指揮官アレクセイ・ソロマチン大尉(Alexei Frolovich Solomatin ←経歴が載っていますが変なページ。ご注意を)に恋をしていたという証拠はありません。
(リトヴァクさんの経歴は省略)
リトヴァクが1943年8月1日敵戦線背後に不時着したことを示唆する証拠があります。最近までは彼女がこの不時着の後、死んだとしつこく主張されていました。彼女は1つの観測気球を含む12の自律的勝利、戦友と共同で撃墜した3機の航空機の功績があったと信じられています。
しかし、ポルニナはリトヴァクはほんの5つの単独の獲物しか得られず、敵の観測気球の他に集団戦闘でMe109を撃墜したのに対し、エカテリーナ・ブダノワ(Yekaterina Budanova)は6機の敵戦闘機を単独で撃墜し、集団戦闘で4機落としたと主張します。ですから、ブダノワが二次世界大戦のトップ女性エースと考えられなければなりません。
長年にわたり、風評はリトヴァクが数人のドイツ将校と駆け落ちしたと主張しました。1937年、彼女の父親はスターリンの恐怖の犠牲になっていました。公式には彼女は「行方不明」であり、敵に寝返ったと疑われていました。このために、彼女の唯一の兄弟は改名せざるを得ないように感じました。なぜなら、これにより不名誉の烙印が押されるからです。
1990年モスクワでリトヴァクの兄弟に会ったという米空軍女性パイロット部隊 (WASP)のアン・ノッグル大尉(Anne Noggle)がそれを伝えたとこの記者は伝えています。プロのカメラマンであり、ソ連女性パイロットとその兄弟の献身的な友人であった本の著者アン・ノッグル大尉は2005年8月16日に死去しました。
(彼女の「死のダンス:第二次世界大戦ソ連女性航空隊」を参照して下さい)
そこで、空軍司令部はリトヴァクが死後「コムソモールスカヤ・プラウダ(Komsomol'skaya)」誌に要請されたソ連邦英雄の称号が贈られる前に彼女の遺体を発見しなければならないと発表しました。
1979年夏リトヴァクの遺骨を捜索中、 ウクライナのクラスニー・ルーチの高校生は彼女が故郷近くの共同墓地に埋葬されているということを知り、ポルニナはリトヴァクの名前をこの墓に記すよう手配しました。しかし、リトヴァクとされている体が今まで掘り出されたという証拠はありません。
1986年3月31日、国防省は遺体をリトヴァクのものであると認め、1990年5月5日、彼女は死後ゴルバチョフからソ連邦英雄の称号が与えられました。
しかし、リトヴァクが捕虜となり、ウラジーミル・ラヴリネンコフ(Vladimir Lavrinenkov)という名の戦闘機パイロットが捕虜収容所で彼女に会ったことを示唆する新しい証拠があります。
第586戦闘機連隊第2司令官アレクサンドル・グリドネフ(Aleksandr Gridnev)による手書のノートはモニノロシア連邦空軍博物館に預けられました。リトヴァクが彼女の不時着と失踪の後にドイツのラジオで話すのを聞いたと指摘します。
しかし、スイスのテレビ番組に出演した女性が実際のリディア・リトヴァクであったかどうかはまだ不明です。
(2006年のKazimiera J. (Jean) Cottam博士による記事を和訳しました)
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