Jan 7, 2013

クラウス・キンスキー 少年→戦争終結後 The young Klaus Kinski story(Translated)


Hi all,

Before I read about the young Klaus Kinski story. His teenage and Wehrmacht story was so exciting, so I introduce this for the Japanese fan. I'd like to thank for this site creator. If you can read in German words, please visit this site!

Hommage an Klaus Kinski



皆さまこんにちは。

クラウス・キンスキーはドイツの怪優と呼ばれ、夕陽のガンマンやドクトル・ジバゴに出たり、ヴェルナー・ヘルツォーク監督と組んだりしていたので皆様ご存知かと思います。次女のナスターシャは綺麗で「どうしてこのお父さんからあの娘が?」と思った記憶がある(笑)のですが、彼も若い頃は顔立ちがはっきりしているからか、なかなかのイケメンだったと感じました。(私はね)

タイトルでお気づきのとおり、彼のファンサイトからキンスキーの少年期からドイツ国防軍時代のことをご紹介したいと思います。

クラウス・キンスキー(クラウス・ギュンター・カール・ナクスィンスキ)は、1926年10月18日海辺のリゾート地ソポト(現ポーランド)に生まれました。家族はソポト、ワルシャワを経て1931年ドイツに移住、シェーンベルガー駅(Schönberger)付近に住んでいました。

1936年ベルリン・シェーネベルクのプリンツ・ハインリヒ・ギムナジウムへ入学。でも、7ヶ月学校をサボったため退学しています。その後、ビスマルク・ギムナジウムに編入しますが、2回出席しただけ。キンスキーは不良で彼を罰しようとした教師を押し倒したらしいのです。何というクソガキでしょう(笑)
1985年「2つの時間(Zeit zu zweit)」でのインタビューです。

「教師は私を殴りたいと思ったでしょう。私は教師が叩く前に2度叩き、我々は床で取っ組み合いをして、すぐに蹴り、叩きました。だから、処罰を免れることは不可能で、私は学校から追い出されました。(学校から少数派を消しました)」

「彼らはいつも『ああ、ありゃあ怪物だ!』と言います。私は全ての学校のうち、2校から追い出されています。私は『またそんな風になるから、僕は学校には行かない!』と言いましたが、母は『そんなの分かっているわよ』と返します」
「その後、国防軍に徴兵されたので、戦争がキンスキーの学校のキャリアを終わらせた」と書かれています。



プリンツ・ハインリヒ・ギムナジウムにはドイツ空軍のエースパイロット、ハンス=ヨアヒム・マルセイユが通っていましたが、別にこのギムナジウムがスクールウォーズって訳じゃないのよね? ちなみに彼らは会っていません-。

キンスキーは1943年頃に国防軍に徴兵され、陸軍(Heer)に就きました。部隊はオランダへ行きましたが、1944年の冬まで活動しませんでした。バラエティ(雑誌)の死亡記事には「彼が戦闘2日目にイギリス兵の攻撃で負傷し、捕らえられた」と記載されていますが、自叙伝にはこう書かれているそうです。

「義務を放棄することに決めたから、敵前逃亡者として軍法会議にかけられて死刑を宣告されました。その後逃亡し、森に隠れて、やっと自分の腕を負傷させたイギリス・パトロール隊に降伏しました」

捕虜となったキンスキーは治療を受けて尋問を受けた後、エセックスの捕虜収容所「キャンプ186」へ入ります。彼を輸送していた船はUボートの魚雷攻撃を受けますが、何とか目的地に到着しました。
捕虜収容所では捕虜の士気を維持するために演劇に参加、初めてステージに立ちます。

1945年5月、戦争が終わると 病気の捕虜から本国へ返されることになりました。キンスキーは夜を裸で過ごし、尿を飲み、たばこを吸って外に出て、なんとか病気になろうとしたましたが、健康そのものでした。

1946年キンスキーはドイツに帰国しましたが、荒廃したベルリンを目の当たりにし、父が戦争で死に、母が空爆で死んだと知りました。

以降の物語は皆さまの知るところですが、自伝が出ているので読んでみるのも良いかもしれません。(積読が読み終わったら私も読んでみたい)

 

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