Nov 5, 2013

オランダに眠るポーランド人無名兵士の正体とは...


こちらの記事をご紹介したくて書きました。つたない紹介文ですが「こんな人もいたんだ!」と興味を持っていただければ幸いです。

謎がようやく解決。無名のポーランド兵士は大胆不敵な抵抗の英雄と判明



 オランダのブレダ・ポーランド軍墓地の無名戦士は約70年後に再び名前を留めた。彼はエドヴァルト(エディ)・イェジー・チェスラー( Edward "Eddy" Jerzy Cieslar)である事が判明した。 これを30年間探し求めてきた歴史家ヨス・ファン・アルフェン(Jos van Alphen 81歳)さんはポーランド軍墓地で無名兵士の身元を探し当てる事を渇望していた。彼は名前を見つける為にヘルダーラント地方の歴史家ヤン・オーンク(Jan Oonk)の助けを借りて重要な話を聞く事に成功した。
「めったにないことだ。私がそれを修正するとは予想していなかった。成果を得られたのは本当に特別なこと」
 既に彼9名の無名兵士の身元を何とか調べ上げたファン・アルフェンさんは言う。

 1926年エドヴァルト・イェジー・チェスラーはドイツに併合されたシュレージエンで生まれた。13歳の時、文字通り国家のために働くよう学校から国家労働奉仕団に召集された。1年後、チェスラーはユトレヒトのクロムハウト兵舎でドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング師団に配属される。
※クロムハウト兵舎(Kromhoutkazerne)はヨアヒム・ヘンドリック・クロムハウト将軍にちなんで名づけられたらしいです。チェスラーさんの所属部隊は第1降下装甲師団ヘルマン・ゲーリング(Fallschirm-Panzer-Div 1 HG)だったという、興味深い箇所です。

 1944年5月26日勇敢で恐れを知らぬチェスラーは軍務でMatous Lorenziniを守ったが、休息中に武装し兵舎の敷地を歩きまわった。(ここよく分からないのですが 汗)一週間後、その理由で逮捕されて死刑を宣告された。
 しかし彼は脱出に成功する。2、3日チェスラーは逮捕から逃れ、フォールトハイゼン(Voorthuizen)に行き、ヤン・ファン・デン・ブルーク(Jan van den Broek)のレジスタンスグループに加わる。彼らは命の危険を冒し、ユトレヒトの兵舎から数回武器と弾薬を盗んだ。

「普通の男の子」を装うことが危険すぎるのならば、チェスラーは隠れているべきだった。彼はアフテルフクのマリエンフェルデで農夫になった。「私たちにはただのエディでした。特別なことは何も」当時、10歳であったソフィー・エイザレーフ=ホルケンボルク(Sophie Ijzereef-Holkenborg)さんは回想する。
 まもなく解放されるという前に、ホルケンボルクが所有する農場で18歳のポールが密告し、チェスラーは殺された。チェスラーのフルネームは知られておらず「無名ポーランド人」として1962年にルールローへ、そして「無名兵士」としてブレダに埋葬された。

 (今回の調査で)記録は公式に認められた。「歴史家ヤン・オーンク氏との接点と知識で全てつじつまが合った」とファン・アルフェンさんは言う。昨年末、ファン・アルフェンさんとOonk氏による研究でポーランド当局によって正式に認識された。

 「E. Cieslar」の名を刻まれたブレダの十字架の碑文「Holenderski Ruch Oporu(波語:オランダのレジスタンス)」は輝く。10月27日、チェスラーは毎年恒例の厳粛な開放記念式典の間に追悼された。

 ブラバント放送(Omroep Brabant)は土曜18:30のニュースでチェスラーを取り上げ、彼の身分証明書を提示。月曜18:00には拡大版を放映。全物語は10月12日(土)BN DeStemの別ページで読み取ることができる。


 ポーランド無名戦士としてオランダの墓地に65年くらい葬られていた人は、実はドイツ空軍のHG師団兵士だったというさっきの話。後半部分は蘭語→英語(かドイツ語)→日本語でかなり強引に翻訳しました(笑)蘭語の分かる方はぜひ読んでみて下さい。

0 comments:

Post a Comment