Apr 28, 2011

(歴史メモ) リッタークロイツの兄弟・いとこ・親子たちメモ

歴史アーカイブとして、騎士鉄十字章(Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes)を親類で受賞している人たちのリストを和訳してみました。


ボルヒャース兄弟(Borchers Brothers)

●ヘルマン親衛隊少佐(Hermann
第9SS装甲師団ホーエンシュタウフェン。他に1級・2級鉄十字章、戦車突撃章、剣付2級戦功十字章、古参闘士栄誉章(Ehrenwinkel der Alten Kämpfer)受章。
●アドルフ少佐(Adolf
ルフトバッフェ(ドイツ空軍)エースパイロット。他に1級・2級鉄十字章、ドイツ十字章、航空戦特別戦績名誉杯(Ehrenpokal für besondere Leistung im Luftkrieg(デンマーク版wikiより)
●ヴァルター中佐(Walter
ルフトバッフェ夜間戦闘機エースパイロット。他に1級・2級鉄十字章受章。1945年3月6日戦死。


フォン・ベーゼラーガー男爵兄弟(Freiherr von Boeselager)

●ゲオルク(Georg
柏葉付騎士鉄十字(Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes mit Eichenlaub)。他に1級・2級鉄十字章受章。フォン・トレスコウ、フォン・クルーゲ等がきっかけで「1944年7月20日事件」に関与。計画失敗後は前線に戻り、戦死。
●フィリップ(Philipp
他に他に1級・2級鉄十字章、東部戦線従軍記章(Winterschlacht Im Osten)、戦傷章銀章、一般突撃章、白兵戦章銅章、陸軍名鑑章(Ehrenblatt des Deutschen Heeres)、ドイツ連邦共和国功労勲章、レジオンドヌール勲章受章。「7月20日事件」最後の生存者。「Der letzte Zeuge des 20. Juli 1944(1944年7月20日事件最後の証人)」という本が出版されている。


フォン・ボーニン兄弟(von Bonin)

●フーベルトゥス中佐(Hubertus
ルフトバッフェ(ドイツ空軍)エースパイロット。他に1級・2級鉄十字章、ドイツ十字章、剣付金色スペイン十字章受章。1943年12月15日戦死。
●エッカート=ヴィルヘルム中佐(Eckart-Wilhelm
ルフトバッフェ夜間戦闘機エースパイロット。他に1級・2級鉄十字章、ドイツ十字章受章。
※2人にはユルゲン=オスカー(Jürgen-Oska)という兄弟がいましたが(受章者ではない)輸送部隊の観測員に就いていた時に戦死しました。


フォン・デア・シュヴァルリー兄弟(von der Chevallerie)
フォン・デア・シュヴァルリー家はユグノーの子孫なのだそうです。

●クルト歩兵大将(Kurt
柏葉付騎士十字章。他に1級・2級鉄十字章(1914)、名誉十字章、1938年10月1日記章(Medaille zur Erinnerung an den 1. Oktober 1938)、1級・2級鉄十字章(1939)、戦傷章黒章、イタリア王国(王冠)勲章(Ordine della Corona d'Italia)、東部戦線従軍記章、ドイツ十字章受章。
●ヘルムート歩兵大将(Hellmut
1945年4月18日にコルベルク(Kolberg)近郊で姿を消す。
コルベルクといえば、1945年(!!)にゲッペルスが作らせた「Kolberg」というプロパガンダ映画があります。


フェーゲライン兄弟(Fegelein)
そして、ここから勲章書くのが面倒くさくなってきた...時間があれば追加します。

●ヘルマン親衛隊大将(Hermann
柏葉剣付騎士十字章。エーファ・ブラウンの妹の旦那ですが、総統地下壕から無断で出歩き、出頭命令を無視して愛人宅にいるところを逮捕されて処刑される。そのくだりは映画「Der Untergang」でありましたが、ミシュさんによれば「処刑はヘーグルらによる独断だった」らしいです。真相は?
●ヴァルデマール予備役親衛隊大佐(Waldemar
ヘルマンの弟。1920年代の世界恐慌の中で、彼のお父さんはミュンヘンで乗馬学校を経営。そんな環境もあって、兄弟とも馬術に優れていたようです。戦前、SSVTに志願。大戦中の1943年12月に第2SS騎兵連隊を統率し、騎士鉄十字を授与されました。彼は大戦を生き抜き、戦後は名前をAxel Fegeleinに変えました。2000年11月20日に死去。


フェルチュ兄弟(Foertsch)

●フリードリヒ大将(Friedrich
レニングラード戦のリーダーシップが認められ、1944年9月5日に騎士鉄十字章を授与されました。戦後は裁判で死刑を宣告されますが、コンラート・アデナウアー首相の介入で解放され、ドイツ連邦共和国の新しい軍隊に入ったのでした。1963年に引退。1976年12月14日死去。
●ヘルマン歩兵大将(Hermann
他にホーエンツォレルン家勲章も受章。歩兵科出身。彼もまた、リーダーシップが認められて騎士鉄十字章を受章しています。1945年、アメリカ軍のジェイコブ・ディバーズ指揮下の部隊に降伏し、裁判にかけられますが無罪になっています。


フレッター=ピコ兄弟(Fretter-Pico)

●マクシミリアン砲兵大将(Maximilian)
柏葉剣付騎士十字章受章。戦間期、ナチス党政権になった時点で大佐に昇進したので軍に残りました。1938年、彼は武官としてトルコに送られましたが、ヨーロッパ戦線が始まりドイツに呼び戻されました。しかし、ポーランド戦とフランス戦には主立って参加していないらしいです。1941年3月、少将に昇進。バルバロッサ作戦開始時は南方軍集団の第97猟兵部隊を指揮。ウクライナのセヴァストポリの戦いに参加して第30軍団の指揮権を与えられます。しかし、彼は想像力に欠ける将軍として知られており、彼の指揮官エーリッヒ・フォン・マンシュタインはセヴァストポリ戦の間、彼を信頼していませんでした。信用してもらおうと色々励みますが、多くの犠牲者を出してしまい、断片的なやり方がマンシュタインの顰蹙(ひんしゅく)を買いました。彼は第6軍とハンガリーの第2軍を率いていて、部隊はフレッター・ピコ軍集団と呼ばれたそうです。1944年10月、デブレツェンの戦いで、ソ連の戦車師団を3個壊滅させます。1945年4月22日、アメリカ軍隊に捕らえられ、1947年まで服役していました。バイエルン州で他界。
●オットー中将(Otto)
勇敢な騎士鉄十字章受章者。ポーランド、フランス、バルバロッサ、スターリングラード、クルスク、ドラクーン、イタリア戦線に参加。1945年4月28日、ブラジル軍に降伏し、1948年まで収監。

続く。。。??



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Apr 27, 2011

大戦中のフィルム「東部戦線のカメラで」と「カラーで見る1933‐1945年」みた いな




 物語を書く時、雰囲気をどう伝えたら良いんだろう? 武器や兵器、戦略のことはさておき、書きたいのは当時の心情や人間模様。あの時代を生き抜いてきた大変さは日本も海外も同じだけど、ヨーロッパ戦線を描く(書く)には、私の脳みそだけじゃ足りません(笑)ヨーロッパのことはヨーロッパの人に聞きたい!という単純な動機で海外の友人と文通(e-palが主)しています。とはいっても、互いの家族のことや趣味の話がメインになっちゃうのですが。



 ドイツ人の祖父を持つオランダの友達にMit der Camera an der OstfrontというDVDを教えてもらいました。「東部戦線のカメラで」というタイトルで、従軍記者の青年(愛嬌のある顔立ちの金髪の若い男子)が手持ちのカメラで取ったカラー映像が収録されています。陸軍(Heer)の白い作業服に身を包んだ兵士たちの訓練風景や労働奉仕団(RAD)の青年たちが鉄道から手を振る様子など、編集されたプロパガンダフィルムとは一味違う、生き生きとした現場の人々の表情が印象的です。

 編集されていないから、絞首刑でぶら下がった犠牲者たちや(逆光気味だったと思う)、べちゃべちゃの足場の悪い地面に放置された兵士たちの遺体を(穴を掘ってそこに放り込むなどして)片付ける現地の女性たちの姿もとらえていて、東部戦線の壮烈さを伝えています。さすがにそういうシーンはモノクロでしたが、空襲で破壊されたワルシャワの風景、空襲前のドレスデンの風景はカラー映像で見られます。

 それから、もう一つ教えてくれたのは「33-45 in Farbe」です。以前「戦争のはらわた」を観たといったら「きゃー!かわいくない!!クミコ、もっとかわいい戦争映画を観なさい」と怒られました(笑)彼曰く「このフィルムは面白いし、かわいい」んだそうです。。。w

 こちらも同じく、今で言うホームビデオ的に撮られたものですが「Mit der Camera...」に比べて田舎の風景が多いです。国の決まりなので鉤十字はいたるところに掲げられていますけど、1930年代の人々の暮らしを見るならこちらがお勧めです。

Apr 22, 2011

ロンメルを映画化するならエド・ハリスで。


皆さま、こんにちは。

左がエド・ハリスで右がエルウィン・ロンメルです。
前々から、よく似ているなぁと思っていましたが並べてみると一目瞭然です。deviantARTにもこの2人そっくり!という投稿がありました。

・・・うん、似てる!

Apr 20, 2011

マックス・ヴュンシェ Max Wünsche

Max Wünsche with Paul Richter, Magda Schneider: Actor Paul Richter, German officer Max Wünsche and actor Magda Schneider who is Romy Schneider's mother.(マグダさんはヴィスコンティ映画等のシシィ役で有名なロミー・シュナイダーのお母さんですよ!)

今日お誕生日のマックス・ヴュンシェ(右)は後にヒットラー・ユーゲント師団の装甲連隊の指揮官となる、ライプシュタンダーテ・アドルフ・ヒットラー(LAH後に第1SS装甲師団 LSSAH)の士官、柏葉付騎士鉄十字章受賞者です。ちなみに、この写真はヒットラーの護衛に就いていた時のものです。軍服ではないのが珍しいお写真です。

一般的に親衛隊のイメージって好ましくないし、迫害という行為に関しては私もアンチなので、マックスがどんな人だったのか調べてから掲載しようと用心深く考えました。

「ヴュンシェは戦後も総統を擁護して公然と大戦中のユダヤ人の殺害が体系的であったことに疑問を呈した」とサミュエル・W・ミッチャムJr(Samuel W Mitcham Jr.)は書いておりますが、それは多分、彼がヒットラーの良い部分だけしか知らなかった、加えてHJ教育をうけていた影響によるものと思われます。(2012.1.26補足)

マックスはヒットラーの護衛に就いており、そういった発言はあったようですが、それは人種差別とは結びついていないようですし、「戦いに身を投じた武装親衛隊の将校」といった印象をうけましたので掲載することにしました。
書籍の他、Wiki英独やAxis History Forumも読ませて頂きました。ありがとうございます。ミッチャムJrさん本以外でいくつか拝読させて頂いた他の記事・書籍もありますが失念しておりますので、思い出した時に加筆させて頂きます。

1914年4月20日、ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州キットリッツ生まれ。バウツェンの学校を経て商業学校に通いました。
農業に興味を持っていたマックスは商業学校を卒業すると、1928年に農業組合に参加、不動産会社のマネージャーとして短期間働きました。 (フランス語のサイトには公認会計士事務所の責​​任者だったとも。。。大体そんな感じのお仕事です 笑)

中央のオッサンではなく右です。

1932年11月にはヒットラー・ユーゲントに参加、1933年7月にユーターボークで下士官になる為の訓練に参加した後、親衛隊に入隊しました。
士官候補生に推薦されると、バイエルン州のバート・テルツにある親衛隊士官学校(SS-Junkerschule)へ入学、1936年に卒業して親衛隊少尉へと昇進したマックスは、4月にLAHの第9中隊の小隊長に任官。1938年10月にヒットラーの警備分遣隊(SS-Begleitkommando des Führers)の当直将校になりました。。(2012.1.26補足)

ちなみにマックスは、1939年8月23日にドイツとソ連との間に結ばれた独ソ不可侵条約のドイツ代表団のメンバーでした。


1940年1月、マックスはオランダ戦とフランス戦のために、パンツァーマイヤー(Panzermeyer)ことクルト・マイヤー指揮下の第15オートバイ中隊の小隊長としてLAHに戻ります。 その後、オランダで戦い、1940年5月15日に負傷しました。

フランス戦の間、今度はマイヤーが負傷したのでマックスはオートバイ中隊(ライプシュタンダーテSSアドルフ・ヒットラー第15中隊)を指揮しました。(2012.1.26補足)

マックスは6月に総統本部に任務のために戻りましたが、1940年にこんなエピソードがあって、マックスはLAHの部隊に戻ることになりました。
 
「イタリア皇太子のオーバーザルツベルク訪問の時のマックスや数名の総統護衛隊の親衛隊将校の対応が良くなかったぞ」とヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルクがヒットラーの副官長で突撃隊(SA)の将軍だったヴィルヘルム・ブリュックナーに抗議しました。
ヒットラーは執事の意見を聞いて「ヴュンシェをLAHに戻そう」と言い出します。一方、ブリュックナーはヴュンシェを擁護して「カンネンベルクが要らんことを言った」と返したもんだから、ヒットラーは怒って翌年の4月にブリュックナーから副官長の職を取り上げました。

ちなみに、ヒットラーの執事アルトゥール・カンネンベルク(Arthur Kannenberg)はプフールのビール・ワイン醸造所の最高経営責任者として、ゲッベルス、ゲーリング、ヒットラー等よく知られたナチス党幹部と結びつき、最初はミュンヘンの党本部「褐色の家」のカジノの管理者として雇われていた人物でした。(2012.1.26補足)


妄想)対応がなってなかったって、どんな態度だったんでしょうね? マックスは写真で見る限り、意外に表情が豊かでお茶目なので面白いことでもしちゃったのかしら??

Funny Meyer, a photo by kumicov on Flickr. いらんことをするマイヤー(左)

カンネンベルクのチクリ事件の後の1940年12月、バルカン諸国との戦いの間に、マックスはゼップ・ディートリッヒの副官としてLSSAHに戻りました。そして、マリタ作戦(ギリシャの戦い)や、1941年6月22日から始まったバルバロッサ作戦に参加しました。
旅団に拡大したLSSAHは軍集団の南側、フォン・クライストのクライスト装甲集団 (Panzergruppe 1) に配置。マックスはFi-156(シュトルヒ)でバルバロッサ作戦の偵察飛行を行います。7月31日の1回の飛行では包囲された赤軍の師団に罠をかけて(7月16日に開始されたウマーニ包囲戦にて孤立地帯を閉鎖した)ノボ・アルハンゲリスク占領に貢献しました。


この時、黒男爵ことミヒャエル・ヴィットマンはおよそ16両の戦車と対決して6両の戦車を撃破しましたが、度重なる戦闘で負傷し、本国に送還されることになります。上官だったマックスに士官候補生として推薦されたヴィットマンは、ドイツへ戻るとマックスの母校であるバート・テルツ親衛隊士官学校にて士官になる訓練をしました。

ちなみに、ドイツでパンツァー(装甲あるいは戦車)の異名を付けられた人がマイヤーを含めて3人いました。
・パンツァーシュルツ(Adelbert Schulz
・パンツァーグラーフ(Hyazinth Graf Strachwitz von Groß-Zauche und Camminetz
・パンツァーマイヤー(Kurt Meyer)です。
グラーフとはドイツ語で伯爵を意味しますので日本語で言うと「戦車伯爵」ですね。。。カッコよすぎる。


ロシア侵攻の間、マックスは二度も師団の指揮官代理に選ばれました。1942年2月にはドイツの防衛線を突破しようとする赤軍を食い止めるためにLSSAHの突撃砲大隊の指揮官に任命され、いくつかのソ連軍部隊を撃退するのに尽力しました。


3月にはムイス橋頭堡(Muisにはネズミという意味もあるのですがネズミで良いのかな?)の予備隊として再び赤軍の進軍を防ぎました。(2012.1.26補足)


1942年6月1日マックスは幕僚学校(幹部職に就くための訓練を行う学校)で学ぶためにベルリンへ帰国し、3ヶ月間、参謀幕僚訓練コースを受講します。終了後は親衛隊少佐に昇進。
1942年9月にLSSAHのいるロシアに戻り、突撃砲大隊の指揮官を勤めました。そして、1942年10月には新しく創設された第1SS装甲連隊第Ⅰ大隊の指揮官に任命されました。(2012.1.26補足)

この辺のマックスが何とフィギュアになってる(笑)

新しい大隊の最初の作戦地域はハリコフにありました。氷点下の極寒!ブリザードとの戦い!赤軍の進軍を食い止め、ハルキウ(現ウクライナ)を占拠するとともに、幾つかの戦いで赤軍に大打撃を与え、2月9日に作戦を終了しました。
2月10日、マックスの年上の指揮官であったマイヤー率いる第1SS偵察大隊を包囲網から救い出そうと大隊は攻撃を仕掛け、2月13日に包囲網を突破。マイヤーの部隊を壊滅から救い出しました。


その後、マックスとマイヤーの部隊は戦闘団(Kampfgruppe)を結成し、ハリコフが赤軍に放棄された2月15日までに赤軍の第VI近衛騎兵部隊(VI Guards Cavalry Corps)を破り、攻撃を続けました。 マックスはこれにより、ドイツ十字章金章を授与されました。

マイヤー「よかった、よかった、先輩は嬉しい」(嘘ですけど、そんな感じ)

2月25日、マックスの戦闘団は師団の南側面に接近している敵の部隊を発見。マックスは率先して赤軍を包囲し、52門の重砲(heavy gun)を破壊。赤軍に900人以上の戦死者を出すほどの激しい戦いを繰り広げ、この戦果によって1943年2月28日に騎士鉄十字章を授与されました。


その年の6月、親衛隊少佐となったマックスはフランスで設立された新しい部隊、第12SS装甲連隊(後の第12SS装甲師団ヒットラー・ユーゲント)に移り、指揮を命じられました。マイヤーはこの連隊長を希望していたそうですが、マックスがこの任務にあたることになりました。この師団は主にヒットラー・ユーゲントから引き抜かれた未成年のドイツ人で構成されていました。また、ほとんどが未成年者だったので煙草ではなくチョコレート等の高級なお菓子が支給されました。

1944年カーン(フランス)にて。

1944年6月6日、連合国がいわゆる「Dデイ」と銘打ってノルマンディーに上陸(オーバーロード作戦)。第12SS装甲師団は6月7日、早くも戦闘を経験することになります。

連合軍は哺乳瓶の絵を描いたりして彼らのことを「赤ちゃん師団」とからかいましたが、ノルマンディーのカーンを2ヶ月近く死守しました。連合軍との戦いにおいて、マックスの連隊は7月の初めまでに219両の戦車を破壊。彼に柏葉付騎士鉄十字章をもたらします。

ちなみに6月14日にはフリッツ・ヴィット師団長の戦死によって、マイヤーがこの師団の指揮を引き継ぎました。1944年8月のヴュンシェ戦闘団(HJ師団所属)は以下のように編成され、動いていました。


1944年8月6日
グリムズビーにて連合軍の第271歩兵師団はオルヌ川を越えて橋を開放する。
ヴュンシェ戦闘団は敵の第271歩兵師団の勢力を和らげるため、反撃するよう命じられる。

8月7-8日
ヴュンシェ戦闘団の戦闘序列 Kampfgruppe Wünsche
●第12SS装甲連隊本部
・〃第1大隊本部
・〃第3中隊(パンターを装備)
・〃第8中隊(IV号戦車を装備)
●第26SS装甲擲弾兵連隊「ヒットラー・ユーゲント」(Panzergrenadier Regiment)
・第I大隊(Battalion)
・第III大隊(Battalion)※本部および1個中隊を除く。
●第12SS砲兵連隊
・第III大隊(増援部隊)
SS第101重戦車大隊(Abteilung)※M・ヴィットマン所属。


ヴュンシェ戦闘団の攻撃は撃退される。
第12SSの部隊はブレトヴィル=シュル=レーズ(Bretteville-sur-Laize)南部に移動。
カナダ軍とイギリス軍がトータライズ作戦(Operation Totalize)を開始。

8月8日
ヴュンシェ戦闘団、カーンの南部グリムズビー(Grimbosq)橋頭堡で戦闘。
機動部隊は、24名の戦死者、91名の戦傷者、7名の行方不明者、パンター9両の損失を被る。
戦闘団(KG)は28両の連合国戦車を破壊したと推定。
司令官のクルト・マイヤーはトータライズ作戦開始の進行を感じ取り、最前線を訪問。
マイヤーは師団の対戦車部隊を見るためにサントオー(Cintheaux)に赴き、連合国の攻撃を回避するドイツ兵の再編成を試みる。
後にマイヤーは悪化している防御状況について第5装甲軍のハインリッヒ・エーバーバッハ(General Eberbach)と協議するためにユルヴィル(Urville)へ赴いている。

トータライズ作戦の結果、東から撤退するよう命じられ、8月11日にケスネイウッド  (Quesnay wood) 防衛に参加。

ソース
The 12th SS: The History of the Hitler Youth Panzer Division Volume II (Stackpole Military History)
Axis History Factbook
(2012.4.20補足)



そして8月20日の夜、ファレーズ包囲戦(1944年8月12日-8月21日)では、マックスと彼の副官Isecke(イゼッケ?)親衛隊大尉、フリッツ・フライターク親衛隊少尉、負傷した軍医が包囲されたファレーズポケットからの脱出を試みますが、ふくらはぎを負傷していたマックスと軍医は捕まってしまいました。8月24日にはIseckeが、しばらくしてフライタークが逮捕され、連合軍の捕虜となりました

マックスとマイヤーが捕まった時についてのトピックスがAxis History Forumに上がっていました。
メイヤーズ(H.Meyers)のヒットラーユーゲント師団の本によると、イギリス軍に捕らえられた翌日、マックスたちはモントゴメリー陸軍元帥の前に連れていかれました。
モントゴメリーはマックスに「イギリス人はジュネーブ条約に基づき、すべての兵士を丁重に扱う」と話しましたが、マックスたちが連行される間に、イギリス兵は彼らの勲章や記章を奪いました。

D.アーヴィング(D.Irving)の本によると、ヒットラーは釈放するためにドイツに捕らえられた連合国将校(英軍)とマックスを交換しようとしました。しかし、それはかなえられなかった。

一方、マイヤーは納屋で捕まる前に陸軍(Heer)の格好をして自分が武装親衛隊員であることを隠そうとしましたが、マイヤーの左腕内側に親衛隊員の証である血液型の入れ墨を発見されてばれてしまったらしいです。(既に敵にも知れ渡るほど有名だったから、どのみちバレれしまうのです)

その後、マックスはドイツ高級将校のための特別な捕虜収容所であったスコットランドの「キャンプ165」の捕虜として終戦まで過ごしました。
マックスは後に同じ捕虜収容所に連れてこられたマイヤーに会っています。

戦後1948年、マックスは解放されてドイツに帰国。ヴッペルタールの工業施設のマネージャーになりました。戦前の業務に戻れたのですね~。1980年の定年を迎える頃までには結婚し、家庭を持ち、そして1995年4月17日、81回目の誕生日を迎える2、3日前に息を引き取りました。(お墓の写真/2枚目 Axis history forumから)

ちなみに、こちらには「奥様の名前はインゲボルク(Ingeborg)さん」とあり、実際にマックスと会った方はこんなふうに話していました。
「私はドイツで1976年にマックス・ヴュンシェと彼の魅力的な妻に会う素晴らしい機会を得ました。彼は家に連れて行ってくれて、我々は何時間も話しました。彼には5人の息子(娘0)がいました。彼は非常に成功した実業家で、戦後ドイツでは低姿勢を保ちました。非常に立派な紳士」
(2012.4.20補足)


最後にこの写真を。彼の真顔は特撮に出てきそうな濃い顔をしておりますが(良い意味で)笑うとかわいいんですよ(笑)笑顔がたまりません。


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Apr 19, 2011

From Signaal page


It's a part of the magazine "Signaal" in German WWII. Markから頂いたオランダ語版Signalから。兵士は大変そうだけど、書体がお洒落。

Apr 12, 2011

From Signaal: 最年少騎士鉄十字章受賞者ミュラー曹長の記事

Photo by "Der Adler" which sent from my Dutch friend.


最年少騎士鉄十字章受賞者を称える
(Eere parade voor den jongsten drager van het ridderkruis)
21歳のミュラー曹長はムルマンスク戦線の降下猟兵。41回目の勝利により、最年少で騎士鉄十字章を受賞。これは彼の名誉である。

Markに頂いたSignaal(Signalのオランダ語版)から記事をご紹介。当時の様子が伝わってきます。


※こちらの画像を勝手に貼り付けているページを見つけました。そういった事は止めて頂くようお願い申し上げます。
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Apr 4, 2011

Just a bit more

Guten Tag alles und Good morning all!

I got OK from my client about my artworks. whew! that was really tough...but many thanks. and she's good person. The landscape illustration seems difficult a little to paint, but also it looks like interesting. recently, I've drawn them while suffering the aftershock. I'll be good if I can finish it. When it will release, I'll tell them.

I'll do my best to all the rest.


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Mar 28, 2011

2 weeks after

Though the earthquake and tsunami induced a mood of self-control among people, it has mitigated to some extent slowly. meanwhile, the news says, foreign sightseers are canceling to Aso and Beppu's hotel. they said, "We identify them with Tohoku". Of course not, I think. Kanto and my homeplace Kyushu are very far. Don't let rumors worry you.

and the stricken areas will surely revive.

the cutback of disaster informations and voluntary bans are two different things. we've to be fine, but the news must continue sending the exact information to us.

Of course, I'll do something for power consumption. For example, maybe the self-candle night becomes so nice moods in my room.

Even if we knew the fact, we have to be positive.

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Mar 17, 2011

Japan Relief Fund


 twitterでもさっそくご紹介しましたが、第二次世界大戦の戦場や航空機のアンティークショップを経営しているイギリス・チェシャー州の友リー・ウッズさんは「救済基金へ寄付してほしい」と自分のサイトでもイギリス赤十字のウェブサイトを紹介してくれています。
 彼が11日から12日の深夜、私に海外での日本のニュースを伝え続けてくれた人です。以後も私と被災者の方を励ますために毎日メールをくれて有り難いです。
 そのリーさんがtwitterで@Footy_4_japanというIDを立ち上げました。「GlobalGiving UKとともにeBayを通じ、日本の地震・津波の救済基金の為にこれを運営し始めました。私はサッカーユニフォームを競売にかけています」とのことで、少しでも支援になれればと願っています。よろしくお願い致します。

 Hello all! they are working alongside GlobalGiving UK for Japanese Earthquake & Tsunami. please check @Footy_4_japan. I'm really really glad. Yes, of course Japanese people, too...Thank you so much. #Footy4Japan

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