Jul 20, 2011

エルヴィン・ラホウゼン氏の本より(7月20日事件周辺)

On 20 July 1944, "Operation Walküre (Valkyrie)" which was the plot to kill Hitler was acted by the German Anti-Nazi group.

今日は7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件があった日です。ゲオルク・フォン・ベーゼラーガー騎兵中佐(死後、柏葉付騎士鉄十字章を受賞し大佐に昇進)は騎士鉄十字章メモのところで少し触れましたね。
ヘタな翻訳で申し訳ないのですが、追悼記念としてこの頃のラホウゼンさんの様子をご紹介したいと思います。そして、おやすみなさい at 2:00am...笑

(追記 7/20PM)
1943年3月13日、ラホウゼンさんは会議の為にAbwehrから東部戦線へ派遣されていました。そのスモレンスクの中央軍集団で、ラホウゼンさんはトレスコウ(Henning von Tresckow)さん、シュラーブレンドルフ(Fabian von Schlabrendorff)さん等とヒトラーの搭乗機に爆弾を仕掛ける「火花作戦」(手土産にもたせた酒のケースに爆弾が仕掛けてあった)を実行しますが、爆弾が作動せずに未遂に終わります。ワルキューレ作戦の映画(トムのとゼバスティアンの)にもちょこっと登場していましたね。この年にはピウス12世誘拐計画もありました。

「火花作戦」が立案されたのは1940年で、ラホウゼンさん、トレスコウさん、彼の副官シュラーブレンドルフさんの他にベック(Ludwig Beck)さん、ゲルスドルフ男爵、デム・ブッシェ男爵(Axel von dem Bussche)、ブライテンブッフ(Eberhard von Breitenbuch)さん、ヴィッツレーベン(Erwin von Witzleben)さん、 クルーゲ(Günther von Kluge)さん、シュレーダー(Werner Schrader)さんが参加していました。

同年8月、ラホウゼンさんは正式に第Ⅱ課をヴェッセル・フォン・フライターク=ローリングホーフェン男爵へと引き継ぎAbwehrを去りました。後にフライターク=ローリングホーフェン男爵は暗殺計画関与を暴かれて7月26日に処刑されましたが、ラホウゼンさんは暗殺計画メンバーの数少ない生き残りとなりました。
ラホウゼンさん、爆破作戦の前日に自らも爆弾で重傷を負い、関与していたことを見過ごされたんです。大怪我の功名というか、自ら実験台のようになったというか...ドイツ語と英語の書籍なのでまだ全然読めてませんが、そのうち別のエピソードもゆーっくりご紹介したいと思います。


(Erwin Lahousen)

ラホウゼンは短い休暇の後、東部戦線に親柱の第96擲弾兵連隊を南東に移動させ、再度、指揮所の第96擲弾兵連隊を第4擲弾兵連隊と一緒に納屋の木立から他の場所へと移した。
1944年4月2日、彼はMarnewoの本部でいくつかの部隊の生き残りから構成された第41歩兵連隊の司令官に就任。ルーマニアとイタリアの師団が加わるが、激しい戦闘をきっかけに次第に多くの兵士が脱走(脱落)していった。

同年6月6日、一旦、連合軍隊が西側へ上陸、ソ連軍と共に直ちに250万人の兵士を攻撃し、新たに供給された軍需物資が大幅に中央軍集団を弱体化させていた。その約2週間後、25個の師団は破壊され、1944年7月28日には師団数が28個になった。(35万の兵士が戦死。スターリングラードのそれよりもはるかに酷い損害であったことを大規模な宣伝活動で覆い隠した。)

また、この部隊はソ連軍の砲撃の対象となり、ラホウゼンの指揮所は追い詰められていた。1944年7月19日、ロシア人の手榴弾砲火を止めようとした無線通信士が殺され、ラホウゼンと副官は重傷を負った。彼の兵士たちはその夜、救護所として麦畑に防水布を敷いて看病し、大規模な爆撃から1日後、彼らを野戦病院へと運んだ。1944年7月19日、ラホウゼンは第一級鉄十字章を授章し、1945年1月1日には少将に昇進した。その後、重傷のため、前線に向かないということで、陸軍総司令部の予備軍司令官に任命された。

(Georg Freiherr von Boeselager)

抵抗運動の効果が示せず、破滅が避けられなかった後で、ラホウゼン少将は1944年7月20日にゲオルク・フライヘル・フォン・ベーゼラーガー中佐が重傷を負った前線へ行き、過酷な攻防戦によるベーゼラーガーの早すぎる死まで模範的に軍事任務へと就いた。

このように、ラホウゼン少将とベーゼラーガー男爵は悲劇的に終結した軍事的抵抗運動「1944年7月20日事件」を目撃した2人の著名な人物であった。困難な戦闘で部隊を失わせるために前線で破壊活動をすることがかつての抵抗のねらいであったが、そうではなくてナチス支配下のドイツ帝国とドイツ軍を破滅から守るためにクーデターを通して戦争を終結させようとしたのである。

(追加7/21am)
英語のラホウゼン本からも、その頃のカナリス提督やAbwehrの様子をご紹介します。

1944年の初めにナチス党幹部は必要な口実を得た。トルコにいる数名のアプヴェアの職員が放棄され、ヒトラーがアプヴェアの長カナリスをその地位から解任するという騒動が後に続いた。(略)
カナリスは7月20日までとどまり、その日の午後に不可解な電話を受けた。発信者は名前を明らかにしていないが、カナリスがその声を数時間前にヒトラーのテーブルの下に爆弾を置き、総統本部から逃げたシュタウフェンベルクのそれと認識するには難しくなかった。

「ヒトラーは死にました。総統はもういない」
その声はカナリスに話した。
「何が、死んだ?誰が彼を殺した?ロシア人か?」
愕然としたムードでカナリスは尋ねた。提督が電話でゲシュタポに何かを漏らそうとするとはあまりにも狡猾であったが、その狡猾さは効果的ではなかった。

数日後にカナリスは逮捕された。
「あのカナリスは誰でも馬鹿にした。総統さえも」
カナリスは終戦の2、3週前にフロッセンビュルク強制収容所で最大の残虐行為の後、絞首刑に処された。

遠く離れたロシア戦線のラホウゼンも同じく有名な計画に参加していた。カナリスから別れたとはいえ、このドイツ軍集団の長は東方にいる軍の計画メンバーと綿密に関係していた。ヨーロッパの地下組織に投下されたイギリス製の爆薬を保管しており、歴史的な7月20日にシュタウフェンベルクがヒトラーの足もとに置くアタッシュケースに入れた爆弾はアプヴェア第Ⅱ課の長ラホウゼンによって入手されたものだった。

だが、オーストリア人情報将校としての彼は、カナリスよりさらに慎重であった。1945年の降伏後、ラホウゼンは西欧列強の諜報部員によって逮捕されるまで生き延びた。


Source:
"Generalmajor Erwin Lahousen Edler von Vivremont...  by Karl Glaubauf and Stefanie Lahousen
"Canaris: Hitler's Master Spy"by Heinz Hohne

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