Apr 3, 2014

東部戦線のベラ・ルゴシ(第一次世界大戦) Béla Lugosi in WWI


 皆様、お久しぶりです。
 
 ベラ・ルゴシ(Béla Lugosi 1882年10月20日-1956年8月16日)といえばどんな役を思い浮かべます? 戦前のホラー映画やエド・ウッドを見た人ならやはり、ドラキュラ(Dracula Trailer 1931)のイメージが強いのではないでしょうか。185cmという大柄で端正な雰囲気は役柄にぴったり。今回はあまり知られていない第一次世界大戦中のルゴシを、こちらの記事を中心にご紹介したいと思いますが、それがなかなか的確なソースが見当たらず(汗)
 新たに情報が分かった箇所は地味に更新しようかと考えております。(時間があれば・・・)



本名ブラシュコー・ベーラ・フェレンツ・デジェー Blaskó Béla Ferenc Dezső
※マジャール語だから苗字Blaskóが先で名Béla Ferenc Dezső。


 大スクリーンでドラキュラを演じた多くの男たちの中で一番で最も有名であるベラ・ルゴシは、何本ものホラー映画で演じた多くの役柄によって映画ファンに記憶されている。ルゴシはハリウッドでの長いキャリアでドラキュラ役から得た名声で私腹を肥やした。
 結局、彼は無名の人に陥り、これまでに制作された幾つかの最悪なB級映画役者に落ちぶれてしまった。それにもかかわらず、ルゴシは太古のトランシルヴァニア地方よりやって来た生き血を渇望する吸血鬼という、神秘的で魅惑的な描写によって未だに多くの人々から愛されている。

 ドラキュラ伯爵役として固定化される残されたキャリアの間ずっと、ルゴシはとても上手に演じた。このため、俳優ルゴシから人間ルゴシを切り離すのは難しい。人は通常、実際よりも悪く見える照明の中の彼を見る銀幕から切り離すと、彼の後世に注目し、薬物中毒が貧窮して、孤独で、以前の全くの見せ掛けにすぎない彼を見捨てた。(映画「エド・ウッド」はこれを特徴づける顕著な仕事をしていない)

 人知れず、ルゴシも第一次世界大戦中に最前線で戦い、彼の形成期の幾年かをそこで過ごした。彼の戦争体験やハンガリー革命(紛争)の混沌とした余波は、この先何年も彼のキャリアへと導くことになる。
 彼がハンガリー人であり、舞台と銀幕との両方で数多くの役柄を演じたという事実以外のルゴシの初期の人生に小さな関心が高まっている。この期間、ルゴシに何が起こったのか? 伝説的な人生の殆ど知られることのなかったこの象徴的な銀幕の側面を、別の方法で焦点を当てることにしよう。

 ベラ・ルゴシあるいはルゴシ・ベーラは1882年10月20日オーストリア=ハンガリー帝国に生まれた。4人兄弟の末っ子。彼の故郷はトランシルヴァニアの西の境から約50マイルのかつての要塞都市ルゴジュにあった。また、近隣ポエナリ城塞(Poenari Castle)にはドラキュラ伝説に挙げられるヴラド・ツェペシュ(ワラキア公ヴラド3世)の屋敷があった。
 ルゴシの父イシュトヴァーン(Istvan)はハンガリー農民家系の子孫であったが、パン屋や銀行家になるために家族の伝統を破った。

 ルゴシは神経質で反抗的な子だった。「私はかなりわんぱくで、かなり手のつけられない子供だった」と彼は後に認めている。

「セックスで変わったことを除けば、ジキルとハイド(二重人格者)のようだった。つまり、男の子であった私はタフで残忍であった。しかし、女の子や女性との交際を始めた時、私は彼女等の手にキスをした...男の子は言う、君は野蛮人だった。女の子は言う、あなたが子羊だったのだと」

 地元ルゴジュの小学校へ通ったルゴシは、1893年11歳の時に両親は彼の意に反してハンガリー王立ギムナジウムへ進学させたのだが、ルゴシは厳格な規律としきたりを嫌って、1年後に学校を中退し、家出した。

 ルゴシはこの時12歳。歩き旅をしていると食べ物と宿泊のために臨時の雑用を当てしたり、見知らぬ人から施しを受けることもあったが、ルゴシは最終的に約300マイル南の小さな鉱山都市レシツァ(現ルーマニア)に落ち着いた。彼は機械工の助手として鉱山で働いたがレシツァにやってきた旅劇団に魅了された。

 ルゴシは俳優になる決心を固めた。「彼らは自分達の演劇で私に小さな役を与えようとしたが、私はかなりの無学で、かなり愚かで、人々はただ私を笑うだけだった」とルゴシは振り返る。
だが、舞台の味をしめた。屈辱も経験した
 1897年ルゴシはスボティツァで母と姉ヴィルマと会うためにレシツァを去った。1898年ルゴシは学校に復学したが、わずか4ヶ月後に中退、鉄道労働者として働いた。そのすぐ後に、ヴィルマの夫はどうにか旅劇団の合唱隊にルゴシを見つけた。


 1900年代初頭までにルゴシはハンガリーのシェイクスピア演技専門の舞台芸術アカデミーに入ることを許された。ハンガリー国立歌劇場では役柄のために田舎者の大げさな芝居で端役をもらって以来、仕事はゆっくりと上向きになっていった。1913年ルゴシはハンガリー国立歌劇場に参加し、シェイクスピア演劇だけでなく、シラノ・ド・ベルジュラックやファウストで主演を果たした。1914年にルゴシは芸術界で出生地ルゴジュから「ルゴシ」と名乗るようになった。(画像:ルゴシ18歳)

 だがその6月、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されるというサラエヴォ事件を契機に、オーストリアがセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦が勃発する

 国立歌劇場の俳優は兵役を免除されており、ルゴシには戦争経歴がなかった。バルカン半島をめぐる状況は変わりそうに無かった。必ずしも明確とはいえない理由。それでも、彼は1914年6月、直ぐにオーストリア=ハンガリー帝国軍に志願した。おそらく、ルゴシは冒険を求めていたのか、あるいは、その当時の多くの男性をひきつけた高い愛国心から強い衝動を感じたのかもしれない。


 少尉(Leutnant)として第43王立ハンガリー歩兵連隊(en: The 43rd Royal Hungarian Infantry)に配属されていたルゴシは、間もなく部隊はガリシアでロシア軍と戦うために東部戦線へと送られた。そして、スキー哨戒部隊への転属のために大いにその能力を発揮した。

 ルゴシの部隊はすぐに自分等が荒々しい冬のカルパチア侵攻に従事していたことに気付いた。1915年1月下旬、侵攻が本格的に始まったのである。危険と隣り合わせ、死のほんの一例を与えるには、この戦いは十分すぎるものであり、驚くべきことにオーストリア=ハンガリー軍は3週間未満で10万人のうち3分の2を失った。

 今日、そのほとんどが忘れ去られているものの、雪の中のカルパチアで生じた最大の戦闘では、前面戦争の中でも最も致命的な出来事であったと、数名の歴史家は考えている。少なくとも、犠牲者は50%以上いた。

 ある意味、ロシア軍の爆弾や弾丸は兵士の心配の種だった。何かあるとすれば、この厳しい自然環境がさらに致命的であった。気温が氷点下20℃に急落し、参謀や将校を含む2個中隊が凍死した。こうしている間、歩兵よりもより良い冬装備を支給されるかもしれない......と考えたのだろう。ルゴシはスキー哨戒部隊への転属のために大いにその能力を発揮し、それが彼の人生を救うことになる。

 我々(この記事の著者)はこの冬戦争におけるルゴシの心情を記した任意の資料を持ってはいないのだが、カルパチアで戦った元ルーマニア将校オクタヴィアン(Octavian C. Taslauuanu)から希少な証言を得ている。この短い証言は兵士が直面した状況を知るためには有益であった。

「カルパチアにおける戦いは、地盤の難しさや季節の苛酷さのため、我が軍がこれまでに味わった以上の最大限の労力や苦しみを必要とした。あそこに居なかった者は、そんな事が人に出来るかどうかだなんて、想像だにしなかったであろう......全ては雪で覆われていた。純白は我々を和らげ、これまでにない程に切望する死のため、静かに振り返る決断を下した。
 夜、棺形の溝を掘り、杜松で覆われたその溝に横たわる男たちを探しに行った時、まるで生き埋めになったかのように、彼らは私に目を向けていた......男たちはこの寒さにもかかわらず、肌着を取り変えるために服を脱いでいた。それから、首から腰まで一つの大きな損傷のある人体を見た。彼らの体は殆どシラミに食べつくされていたのである」

 ルゴシが話して聞かせた数少ない戦争話の一つは、インタビューにおいて語られた。
「決して忘れることのできなかった瞬間が、あった。我々はロシア軍から森林を守っていた。巨大な木の下(木の下それぞれに各兵士たち)でかがんでいた。軽率な青年将校が援護のため少し進み出ると弾丸が彼の胸に当った。ロシア兵が機関銃部隊の防御線から撃ってくることを忘れていた。献身的な男ではないのだが......彼に助けを求められ、応急手当をした。私は木の下に戻り、それが猛烈な破砕片で天に吹き飛ばされたことに気付き、ヒステリックになった。私は林床で子供のように泣いた。恐れからくるものではなく......安心からもたらされるものではなく......神がその方法で善良な心を持てた私にお返しをしてくれたという、感謝の気持ちからだ」

 ルゴシは2度負傷した。最初はロハティン(Rohatin ガリシア。現・ロハティン、ウクライナ)近郊で戦った時。2度目はカルパチア山脈で。 俳優として兵役を免除されて以来、前線に志願し、最終的に大尉(Hauptmann)としてロシア戦線で戦ったルゴシもまた、無傷のまま戦いを終える事はできなかった。多くの負傷や勇敢さで数個の勲章を授与されたが精神的に身体的に苦しみ、任務から外された。
 ある伝記作家は「その解放は間違いなく精神不安定と皮肉られたのだ」と述べる。ルゴシが耐えてきたどんな傷でも、彼を劇場から遠ざけることはできなかった。

 1916年前半、病院から退院した直後、ルゴシは18ヶ月の軍務を終えた。





【 ソース 】
オーストリア=ハンガリー軍に含まれたハンガリー王立軍1914年春データベース
トランシルヴァニア真の恐怖―東部戦線のベラ・ルゴシ

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